量が増えても大した意味はない
ビッグデータという言葉がよく聞かれるようになったのは、GoogleやAmazonといったネット企業において、顧客履歴のようなデータがそれこそ膨大に集まり始めたことがきっかけだったように思う。
購入物はもとより、一緒に購入したものや一緒に検索したもの、さらにはそれを見ていた時間や検索の順番、あるいは他のサイトとの連動関係なども一緒くたにとらえることができるようになった。これにもう少し別のデータを組み合わせることができれば、顧客属性と顧客行動をひもづけて分析することができる。これはそうとうに魅力的だっただろう。
おそらく、ビッグデータにかかわる企業の多くが実践しているのは、こうした量的にビッグなデータを分析し、売り上げ向上につながる一手を見つけ出すことにある。確かに、これによって新しい何かが見いだされることはあるかもしれない。
しかし、これが本当にビッグデータに固有のものなのかどうかはよくわからないところである。
ビッグデータとセットで語られることの多い「統計」を考えてみよう。この分野で行われてきたのは、少数サンプルから母集団を推定することだった。統計が発達している現在、量的にビッグでなくても、推定はもともと可能なのである。
ビッグデータそのものが答えを与えてくれるわけではないことは明らかだ。ここで再び質的な側面の話に戻れば、重要なのは、それがどういったデータから構成されるものであるのか、それをどう分析するのかのほうだった。
とすると、ビッグデータにおいても、これをうまく分析し、何かを発見できるリサーチャーこそが重要ということになる。ビッグデータが生きるも死ぬも、それは彼らの腕次第なのである。
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