「そのデータにはどういう意味があるのか?」
そしてもうひとつ、「それがどのような意味を持つデータであるのか」についても考える必要がある。これもまたリサーチャーの力の問題にかかわってくるが、「あるデータがどういう意味を持つデータであるのか」を決めることは、そうとうに難しい。
たとえば、顧客の行動履歴に、「ある商品の購入」というデータがあったとしよう。ここからは、事実として、ある商品が売れたことはわかるし、それ自体を疑う必要はとりあえずない(機械が記録ミスをすることはまずない)。
けれども重要なのは、そのデータの意味だ。よく売れているということなのか、それとも思ったよりも売れていないということなのか、よい商品だということなのか、単に安いだけの商品だということなのか。さらにいえば、顧客が喜んで買った商品なのか、それとも、別のものを買おうと思っていたが、それが売り切れだったために買った商品なのか。
「データが何を意味するのか」は、データの履歴が存在していること自体とは別に考えるしかなく、一義に決めることはかなり難しい。
さて、いよいよビッグデータの価値は、これとは別に、考える必要があることになる。考える必要自体をビッグデータの定義に組み込んでしまってもいいが(まさに総務省の定義のように)、それこそビッグデータの固有性は何もなくなってしまうことになる。どんな分析でも必要なことだからだ。
昨今では、エニイデータ(Any data)という言い方も出てきているようだ。こちらの方が現実の感覚に近く、また間違いも少ないかもしれない。「どんなデータでも」という言葉が意味するのは、それがどんな意味を持つかはこちらの料理次第ということになるからである。
つまり重要なのは、「データをいかに料理するか」。著書ではそれを、「本質直観」を軸に、マーケティング分野で行われてきた研究に触れながら論じたが、分析の手法以前に、僕たちは、「データといかに接するか(もう少し正確には、今すでにどのように接してしまっているのか)」という問題に取り組まなくてはならない。データに振り回されないための核となるものが必要なのだ。
※『「本質直観」のすすめ。: 普通の人が、平凡な環境で、人と違う結果を出す』は、こちらから
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