デザインと機能、芸術性と実用性のバランスをとるのは、素人が考えても難しいはずだ。何年か前にバルセロナでアントニオ・ガウディの設計した住居を見て歩いたことがある。
中まで入らせてもらったが、こんなところに住みたいとは全然思わなかった。だいたい壁が波打っているような部屋に、どうやって家具を置くのだろう。あるいはファッションにしても、パリのオートクチュール・コレクションに出品されるような有名デザイナーの服が、衣類として優れているとは思えない。保温性や速乾性があって着心地がいいのはユニクロやモンベルだろう。
ジョブズが世に送り出す製品も、こうした問題をクリアする必要があった。現場はさぞかし大変だっただろう。先端技術を使った電子機器の製造では、エンジニアリングがデザインに先行するのが普通である。まずエンジニアが仕様や要件を決め、それに見合ったケースや外殻をデザイナーが考える。ジョブズは逆だ。最初にケースのデザインを決め、そこにボードや部品が収まるようにエンジニアに工夫させる。
このやり方はiPhoneでも変わらない。ジョブズが目指したのはキーボードもスタライス・ペンもないタブレットだった。「そんな無茶な」と思ったエンジニアもいたに違いない。その無茶が結果的に、スマートフォンというそれまで存在しなかったガジェットを生み出すことになる。
ジョブズは成果を独り占めしすぎた?
ところでジョブズは、実際にどの程度までデザインに関与していたのだろう。iMacやiPod、iPhone、iPadなど、現在の主要なアップル製品のデザインを担当したジョニー・アイブは、ジョブズが成果を独り占めしすぎると言っている。アイブのアイデアをジョブズが自分のものであるかのごとく外部に吹聴することが不満だったようだ。
同様の声は多く聞かれる。するとジョブズはアーティストのアイデアをかすめ取って、アーティストぶっていたクソ野郎ということだろうか。そのあたりの詳しいことはよくわからないし、ジョブズがクソ野郎だったかどうかは、本当はどうでもいいことだ。たしかにクソ野郎だったのだろうが、クソ野郎だけであったわけではない。