倒産を乗り越えた!「カウンタック」の神通力 その裏にいた天才スタンツァーニの才覚と商才

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さらに問題なのは、製造コストの高騰であった。1960年代のイタリアにおいては熟練工もたくさんいたし、工賃も比較的安価であった。だから、下手に機械化するよりもハンドメイドで仕上げる製造手法のほうが、少量生産メーカーにとっては合理的であったのだ。しかし、1980年代後半ともなると、大きく状況は変化した。より効率的な製造手法が必要とされたのだ。

さらにスーパーカーに関する顧客の好みも変化していた。カウンタックのコックピットに潜り込むのは、そう簡単なことではない。体をよじって頭をぶつけないよう、細心の注意を持って入り込まなければならない。

「カウンタック 25th Anniversary」のインテリア(写真:ランボルギーニ)

大柄な人ならば、乗り込んでからも大変だ。ルーフと頭のクリアランスはほとんどゼロとなるから、必然的にシートバックを寝かせたストレートアームポジションを取る必要があった。

そのような苦行を要するクルマは時代とともに少数派となり、トレンドはよりラグジュアリーな方向へと変化してきた。スーパーカーといえども、ある程度の快適性を求められるようになってきていたのだ。カウンタックはハードウェア的にすでに寿命を迎えていたが、その斬新なコンセプトから生まれた魅力は衰えていなかったと言える。

しかし、17年という時間はとてつもなく長い。長きにわたってカウンタックが作り続けられたその背景には、クルマ作りに命を懸けた男たちの活躍があったことも覚えておいていただきたい。

1978年、ランボルギーニは裁判所管理下へ

カウンタックのコンセプトモデル「LP500」が発表された1971年から、ランボルギーニの歴史は大きく蛇行していった。

チーフ・エンジニアでありランボルギーニの若きCEOとなったパオロ・スタンツァーニは、フラッグシップ・モデルであるカウンタックの開発に全力を注いだが、経営環境は悪化の一途を辿った。当地における労働運動の激化に加えて、北米での安全基準や排ガス規制への対応に翻弄された。そこに多くの投資を余儀なくされた。

そして1973年10月、第1次オイルショックが世界を襲い、自動車産業は壊滅的なダメージを負う。フェルッチョ・ランボルギーニはランボルギーニの自動車事業をすべて手放し、スタンツァーニも、カウンタックの顧客へのデリバリー開始を見届けて間もなく、新オーナーと意見の相違から退陣する。ランボルギーニの経営はさらに迷走し、1978年には裁判所管理下となった。つまり、倒産してしまったわけだ。

しかし、そんな中でも途切れることなくカウンタックは作り続けられた。ランボルギーニの立て直しを裁判所から任命されたのは、元マセラティの名チーフ・エンジニア、ジュリオ・アルフィエーリであった。

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