アルフィエーリは同じような環境にあったマセラティの立て直しにも奔走したが、悪いことに新しいCEOとなったのは宿敵、アレッサンドロ・デ・トマソであった。そのため、彼の手掛けていた仕事はすべて破壊され、マセラティから放り出されるという憂き目にあったばかりであったのだ。
アルフィエーリはその体験を反面教師として、ランボルギーニの立て直しに精力的に働いた。フィアットから下請けの仕事を受注したり、ポケットマネーで従業員たちの給与を補填したり……。その中でも彼は、ランボルギーニのDNAであるカウンタックを作り続けることに全精力をつぎ込んだ。
それはランボルギーニで働くワーカーたちの誇りを取り戻すきっかけにもなった。ごく少人数で作り続けられたカウンタックのおかげで、ランボルギーニの歴史は途絶えることなく、現代へと引き継がれた。
「カウンタックは、まさに職人技で作られていました。そういう熟練工たちも、ランボルギーニの仕事がなくなると、家業である農業を手伝うなどして生計を保っていたのです。しかし、カウンタックの生産が始まると聞くと皆、目を輝かせて集まってきました。昼間は畑仕事に精を出し、夕方になるとサンタアガタの工場へやってきて、カウンタックの組み立てに心血を注ぐ。皆はランボルギーニを作るという喜びをかみしめていたのです」と当時のワーカーは語る。これこそ、まさに奇跡のストーリーではないか。
しかし、そんな運転資金にも事欠く中で、いくらボランティアのような熟練工の協力があったとはいえ、カウンタックが作り続けられたのにはわけがあった。時計の針を1971年まで戻そう。カウンタックのコンセプトモデルLP500は熱狂的な評価を受けたが、その生産化は暗礁に乗り上げていた。
「カロッツェリアへの外注」という常識
当時、フェラーリやマセラティ、そしてランボルギーニなどモデナのスーパーカーメーカーは自前のデザインセンターを持たず、スタイリングの提案、そしてボディの製造など、多くのプロセスをトリノのカロッツェリアへ外注していた。カウンタックのスタイリングを担当したマルチェッロ・ガンディーニも、その1つであるカロッツェリア・ベルトーネのチーフ・デザイナーであった。
カウンタックのコンセプトモデルは当初、エンジンなど駆動系が載ったシャーシ(フレーム)にボディを被せる従来の方法ではなく、現在のほとんどのクルマと同様に、シャーシとボディが一体化されたモノコックボディで考えられていた。
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