1966年のジュネーブモーターショーおいてデビューを飾ったランボルギーニ「ミウラ」は、スポーツカーの歴史を変えた。それはまた、“スーパーカー”というカテゴリーが世界中から認知された瞬間でもあった。
スーパーカー、それは何とも魅力的であるが、曖昧な言葉でもある。その定義は難しいが、誰もがその存在に「あっ」という感嘆詞を発せずにはいられないオーラをもったモデルでなければならない。そして、皆を納得させる先進性とユニークな美しさを備えている。そんなスポーツカーだけが名乗れるものだと、筆者は考える。
そういう観点で見れば、ミウラはまさにその要素を兼ね備えた先駆者(車?)だ。
V型12気筒エンジンを横置きミッドマウントするという革新性、そして新しいミッドマウントエンジンカーのスタンダードともなる、洗練されたスタイリング。それまでのレースカーをベースとしたスポーツカーや、豪華なクーペであるGT(グラントゥーリズモ)とは一線を画す、斬新なコンセプトの誕生であった。
世界中から絶賛されて誕生したミウラであったが、開発を担当していたジャンパオロ・ダラーラとパオロ・スタンツァーニの2人は、その素晴らしき評判を前になぜか恐怖に打ち震えていた。彼らは類い希な才能の持ち主であったが、まだ20歳代の若者であり、クルマを1から作り上げることに関して、さしたる経験を持ち合わせているわけではなかったからだ。
そんな2人の力量拝見と、世界中の注目が集まったのだから無理もない。ミウラが絶賛される中で、2人は自分たちが行おうとしている試みの無謀さに改めて気づいたのであった。
フェルッチョが若い2人を起用した理由
「ミウラの開発にあたって、ベンチマークとなるクルマは何もなかった。V12という大型エンジンを横置きレイアウトする市販モデルなど誰も考えない代物だったし、すべてを1から設計し、必要なパーツを開発する必要があった。マーケティングからは完成を毎日のように急かされるし……」とスタンツァーニは語っている。
しかし、普通ならそんな難題を若いエンジニアに任せるようなことはしないのではないか。オーナーでありCEOであったフェルッチョ・ランボルギーニは、クルマ作りの経験が浅いために、そんないい加減な判断をしたのであろうか。答えは「No」だ。
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