フェルッチョは自らレースカーやトラクターの開発に関わったことがあり、エンジニア的な思考をしっかりと持っていた。アウトモビリ・ランボルギーニ設立に当たって、フェラーリやマセラティなど当地のトップメーカーからすご腕を引き抜いてきたにもかかわらず、開発の要であるチーフエンジニアには20歳代の若者を採用したのにはワケがあった。
過去にとらわれず新しい冒険をするには、優秀で前向きな若者の考えを尊重すべきだというフェルッチョのフィロソフィーによる判断だったのだ。
もし、経験豊富なエンジニアであったら、多くのチャレンジが必要なミウラをこんな短期間で開発するなど、考えなかったはずだ。ダラーラとスタンツァーニという2人の若者は、まんまとフェルッチョの“罠“にハマったのである。
「ランボルギーニはレース活動をしない」の真意
ジュネーブモーターショー、そしてモナコGPでのデモンストレーションにおいて世界中から絶賛を受けたミウラは、注文が殺到した。中には数字が記されていない白紙の小切手を置いていくものすらいたという。早急な開発は、ランボルギーニの自動車事業立て直しのためにも、顧客からの要望に応えるためにも、ファースト・プライオリティであったことは間違いない。
若き2人のエンジニアは死に物狂いで開発を進めていったが、1番の問題は市販モデルとしてしかるべき快適性をいかに実現するかであった。
レースカーであれば、少しくらいの運転のしづらさや暑い車内も言い訳できるが、とてつもなく高価なこのミウラを手に入れる顧客たちはプロのドライバーではないし、助手席には着飾ったガールフレンドも乗せたいであろう。そういう素人のニーズにもしっかりと応える必要があった。スーパーカーとはそういうものなのだ。
少し話は逸れるが、皆さんは「ランボルギーニはレース活動を行わないことを社訓する」というエピソードを耳にされたことがないだろうか。その真偽は、「半分は正しいが、半分は間違っている」というのが筆者の意見だ。
ダラーラは前回の記事でも書いたように、当時フェラーリ、マセラティ、そしてランボルギーニと転籍を繰り返していた。それはなぜかと言うと、彼は何としてもレース活動に直接関わりたいという強い欲求を抱いていたからだ。それならば、レース活動を行わないと名言する会社に彼が移るわけはない。
事実、「もちろんレース参加の夢を入社時にフェルッチョと語り合っている。それで意気投合してランボルギーニへ入った」とダラーラは以前、筆者に語ってくれている。では、なぜランボルギーニはレース活動をしなかったのか。その答えを、スタンツァーニが語ってくれた。
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