「レガシィ」の登場から31年が経過した。5代目以降は北米を主軸に置くクルマづくりとなったが、今もスバルのフラッグシップを支える存在である。
その一方で、日本では2014年に「25年目のフルモデルチェンジ」をキーワードに日本ジャストサイズで開発された新ブランド「レヴォーグ」が登場。すでに2019年に東京モーターショーで次期モデルもお披露目され、今年の後半に発売予定だ。
1989年のレガシィ登場前後で、スバルのイメージは大きく変わった。「積雪地域で乗るクルマ」から「走りにこだわりのあるメーカー」への変貌だが、筆者が気になっていたのは、「なぜ変わることができたのか」である。
その疑問を解くために、当時のキーマンと言える辰己英治氏にお話を伺った。
現在、辰己氏はスバルのモータースポーツ活動を支えるSTI(スバル・テクニカ・インターナショナル)でニュルブルクリンク24時間耐久レース総監督であるとともに「ハンドリングマイスター」という肩書を持っているが、実は富士重工業(現SUBARU)時代に初代レガシィの走りの評価を担当した人物。現在に続く「スバルの走り」を構築したメンバーの一人である。
凡庸なレオーネからの脱却
1970年代に厳しい排ガス規制を乗り越えた日本車は、1980年代に大きく成長を遂げていくが、スバルだけはその波にまったく乗れずにいた。それどころか、他社による買収や倒産の危機まで報道されるほど、厳しい局面に立たされていた。
当時、スバルの主力モデルと言えば「レオーネ」で、当時の最新モデル(3代目)はターボにフルタイム4WDとトレンドは押さえていたが、悪路走破性以外はライバルに対してまったく歯が立たず……という状況だった。
辰己氏は、1970年に富士重工業に入社している。まずは、入社当時の状況からレガシィ誕生までを伺った。
――当時の主力車種はレオーネですが、どんな印象でしたか?
辰己:今だから言えますが、とにかく一般大衆受けしなかったのを覚えています。そういう意味では「いいクルマを作ろう」というよりも、「会社が潰れない程度の投資でクルマを作ればいい」といった風潮だったような……。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら