豊田章男の「運転の師匠」がこだわり続けたこと 成瀬弘氏はなぜ「ニュル」を走り続けたのか

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豊田章男社長にアドバイスをする成瀬弘氏(写真:トヨタ自動車)

トヨタ自動車の豊田章男社長は、ことあるごとにこの男の話をする。成瀬弘(なるせ・ひろむ)、トヨタ自動車に在籍する約300名の評価ドライバーのトップガンであり、豊田社長の運転の師匠だ。

2010年6月23日、自身の知見とノウハウをすべて注いで開発したスーパースポーツ「レクサスLFA」の50台限定スペシャルバージョン「ニュルブルクリンクパッケージ」のテスト中に、ドイツ・ニュルブルクリンク近くの公道にて交通事故で逝去。あれから10年が経った。

今も成瀬氏が育てた弟子たちが、その精神を継承している。

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豊田社長と成瀬氏が2007年に発足させた「“元祖”GAZOO Racing」は、今やGRカンパニーとしてトヨタの他のカンパニーと肩を並べる存在になっているし、彼が生前に語っていた「大事なことは言葉やデータでクルマづくりを議論するのではなく、実際にモノを置いて、手で触れ、目で議論すること」、「人を鍛え、クルマを鍛えよ」は、社内にも深く浸透している。

しかし、トヨタ社内にも成瀬氏を知らない世代が増えている。それはわれわれメディアやユーザーもしかりだ。筆者は成瀬氏とさまざまなシーンで顔を合わせ、自社の製品ですら厳しい意見を厭わない「成瀬節」を何度も聞いてきた1人である。

ここでは、そんな成瀬氏のヒストリーを簡単に振り返ってみたい。

初代「MR2」から"ニュル詣”をスタート

成瀬氏は、1963年にトヨタ自動車に入社。車両検査部に臨時工……と異例の採用だったが、幼い頃からクルマに触れてきたこともあり、類いまれな速さで頭角を現し、モータースポーツの車両開発やレース活動を担う「第七技術部」に所属、レーシングカー「トヨタ7」のチーフメカニックを担当する。

トヨタが1974年にレース活動を中止する直前の1973年、スイスのトヨタディーラーが「セリカ1600GT」で耐久レースに参戦する際に、日本側からのメカニックとして渡欧。この時、生涯を掛けて走り込むことになるニュルブルクリンクと出会う。ここで成瀬氏は「道がクルマをつくる」と直感したそうだ。

初代トヨタ「MR2」(写真:トヨタヨーロッパ)

その後、1980年代に初代「MR2」の評価を担当したのを皮切りに、トヨタのニュルブルクリンクでの開発がスタート。以降、トヨタのスポーツモデルは“ニュル詣”を行うようになった。

成瀬氏のニュルでの走行経験年数/周回距離は日本人トップクラスで、その実力は海外メーカーも認めるほどだったと聞く。風の噂では、当時のトヨタのラリーチーム(TTE)からドライバーとしてのオファーもあったと言う。

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