豊田章男の「運転の師匠」がこだわり続けたこと 成瀬弘氏はなぜ「ニュル」を走り続けたのか

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量産車開発では「セリカ」、「カローラ・レビン/スプリンター・トレノ」、「MR2」、「スープラ」、「アルテッツァ」、「MR-S」などのスポーツ系モデルには何らかの形で関わっているが、レクサスLFAは成瀬氏1人に評価が委ねられた。

また、それ以外にも初代「セルシオ」や2代目「プリウス」などの車両評価も担当。成瀬氏は「僕の中ではレーシングカーもトラックも同じクルマで、すべては材料で決まる。僕はその材料を100%活かせるようにするだけ」と語っていた。

レクサス「LFA」(写真:トヨタヨーロッパ)

ただ、さまざまな制約のある量産車ではなかなか理想の走りには至らず、試作時に実現していた乗り味が量産車では再現できないジレンマもあったようで、「“理想のノーマル”のスペックをTRD(トヨタ100%子会社)に託す」と言う荒業を使ったこともあったとか。

こうして現場で鍛えた叩き上げのスキルから、評価ドライバーの頂点である「トップガン」と呼ばれるようになる。

また、ニュルをはじめとする現場を見てきた経験から、世界で通用するメーカーになるためには、「もっと人とクルマを鍛える必要がある」と考え、自らが先頭に立って人材育成も行っていた。

それは社内だけでなく、われわれ自動車メディアも対象だった。

「自動車ジャーナリストは運転の基本ができていない。ウチのニュルブル(成瀬氏はニュルブルクリンクの事をこのように呼ぶ)でのテストドライバー養成に誰か参加させないか?」と。筆者は参加することは適わなかったが、同業者の何人かは実際に訓練を受けている。

さらに豊田社長への運転訓練をしていたことも、有名な話だ。

その気があるなら、僕が運転を教えるよ

当時、アメリカから帰ってきたばかりの豊田氏に「あなたみたいな運転のこともわからない人に、クルマのことをああだこうだと言われなくない。最低でもクルマの運転は身につけてください」、「われわれ評価ドライバーをはじめとして、現場は命をかけてクルマを作っていることを知ってほしい」と言ったのは有名な話。

ただ、そこから先があり、「月に1度でもいい、もしその気があるなら、僕が運転を教えるよ」と。

2010年のニュルブルクリンク24時間レース参戦時(写真:トヨタ自動車)

このやり取りから子弟関係が生まれ、2007年にGAZOO Racingによるニュルブルクリンク24時間耐久レースへの参戦へとつながり、東京オートサロン2010での「新スポーツカー戦略」、そして現在のGRカンパニーへとつながっていく。

実は筆者は、成瀬氏が亡くなる2カ月前の2010年4月、自動車メディアが主催するイベントで取材を行っていた。いつもは口数が少ない成瀬氏がこの時はいつになく饒舌で、3時間を超えるロングインタビューだったが、結果としてこれがラストインタビューとなった。

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