――当時のAWDは「曲がらない」が定説でしたが、どのように「曲がるAWD」を実現できたのでしょうか。
辰己:実は当時、先行開発で「レオーネを使ってもっと走りをよくするには」という取り組みをしていました。
レオーネは、ジオメトリーやロールセンターの高さなどから、内輪を使えなかったので、先行開発車両でさまざまな研究を行っていたのですが、それはダートトライアルでの考え方を応用したものでした。
たしかにレオーネは曲がらないクルマでしたが、私の競技車両のレオーネはよく曲がりました。そういう意味では、初代レガシィの走りの考え方は、私のダートトライアルでの経験とベンツ190Eが参考になったと言っていいでしょう。
――これまでとはまったく違う発想に異論を唱える人はいなかったのでしょうか?
辰己:当時、本部長だった森永(鎮)さんは「辰己がいいと思うことはやらせてやれ」、今で言う開発責任者だった中村孝雄さんも「辰己が言っているんだからいいんじゃないか」といろいろとお金を使わせてくれました。今思えば、「それほど使わなくても……」という部分もありましたが(笑)。
――初代レガシィの市場での評価を社内ではどのように受け止めていましたか?
辰己:私を含めたエンジニアは、「われわれも頑張れば脚光を浴びるクルマを作れる」と思いました。意識的な部分はもちろんですが、エンジニアが育ったのもこの頃だと思います。
ライバルが追随する中で2代目へ
レガシィ発売後の市場について補足しよう。発売当初、ターボモデルはセダンのMTのみだったが、遅れてATとツーリングワゴンにも設定されると、その人気はさらに高まった。
それに合わせるようにトヨタ「カルディナ」や日産「アベニール」をはじめとするライバルモデルも次々と登場した。そう、挑戦者として生まれたレガシィは、逆に追いかけられる立場になったのだ。
ヒットモデルの2代目は難しいとよく言われるが、それはレガシィにも当てはまる。辰己氏に、2代目レガシィについても聞いてみた。
――1993年に2代目が登場しましたが、どのような目標を掲げたのでしょうか?
辰己:それは「世界一を目指す」でした。昔はおこがましくて言えませんでしたが、スバルのキーマンの口からもそのようなキーワードが出るようになりました。初代レガシィは世間では「いいクルマだね」と評価されましたが、エンジニア的には「まだまだ」な部分も数多くありましたから。
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