「本来なら継続して販売すべきだった。後継の『カウンタック』が20年にもわたって作り続けられたのとは対照的だ。こういう高付加価値モデルはあらかじめ順番を決めて、少しずつアップグレードしていく必要があった。そうして長期間販売しないと利益を生まない。ミウラが短命に終わった理由は、売れなくなったからだ。フェルッチョは独特の詭弁でいろいろな理由を付けたが……」とスタンツァーニ。
人気を博したミウラが、あっという間に売れなくなってしまった。そんな理由で販売を中止せざるを得なかったとは……。スタンツァーニに言わせると、それはこういうことであった。
S、SVと進化させるなら、セールスネットワークによって顧客をフォローし、旧モデルを下取るなどしなければならなかった。ところが、当時のランボルギーニにはしっかりとした販売網がなく、初期オーナーが手放した中古ミウラは“価格ありき”で転売が繰り返された。
そうした中古ミウラを手に入れたのは想定していた顧客層とは違った。それゆえ、ミウラにはあまり好ましくない“裏稼業を営む人々の乗るクルマ”というイメージができ上がってしまった、というのだ。
「SVは素晴らしいクルマだと従来の顧客は評価してくれたが、裏稼業を営む人々がミウラを得意げに乗り回し出すと、かつての顧客は離れてしまった。だから、最終モデルであるSVの販売には苦労した。後世に伝えられるべき素晴らしいモデルであることは間違いないのに、とても残念だった」とスタンツァーニは嘆いた。
なるほど、スーパーカーにとって重要なのは、ブランディングなのだ。どんなにデキが良くてもイメージが損なわれたなら、その輝きも消え失せてしまう……。そして、スタンツァーニはミウラで得た課題を胸に、次期ミウラ、つまりカウンタックの開発へと取り組んで行く。
また彼は、ミウラの完成とともに29歳という若さでアウトモビリ・ランボルギーニのCEO職を命じられてもいた。その才能はますます開花していくが、このあたりはまた続編として書いてみたい。
80歳の誕生日に夢を叶えたダラーラ
一方のダラーラは、ミウラの完成を待ってアウトモビリ・ランボルギーニを後にした。
レース界での仕事を模索し、フリーランスの道を歩み始めたのだ。世界のレース界をサポートするために、彼はまもなくダラーラ社を起こす。その後の世界を股にかけた彼の活躍は、周知の事実だ。
しかし、ダラーラにとってもやはりミウラは別格の存在であったようで、「いつの日か、ミウラでやり残したことを反映させた理想のロードカーを作りたい」という夢を持っていた。そして、長年の夢を彼の80歳の誕生日に実現させたのだ。
ダラーラ「ストラダーレ」と称す、「未来のミウラ」を彼は自前で開発し、製造販売を開始した。ミウラのイメージカラーでもある鮮やかなイエローをまとった、ダラーラの夢のクルマは、再び世界のクルマ好きを熱狂させている。素晴らしき伝説のミウラに関わる話は尽きないが、ここで一旦筆を置くことにしよう。
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