クルマ好きが憧れる名車の中でもランボルギーニ「ミウラ」は別格かもしれない。1966年の発表とともに、世界中にミウラ旋風が吹き荒れ、オーダーが殺到した。
フランク・シナトラ、グレース・ケリー、そしてイランのパーレビ国王といった世界のセレブリティたちがこぞって手に入れたのだ。イタリアではバールからアパレル・ショップまで、さまざまな店舗にミウラの名前を付けることが大流行だったという。ミウラの存在は社会現象化した。
その神通力は、生誕50年を過ぎた現在でも健在だ。歴史上の名車といえば必ずミウラの名前が挙がるし、オークションにおける落札価格はうなぎ登りで、2億円を超えた記録も残っている。
ミウラがなぜそんなにも絶賛されるのか、その理由を分析していこう。
「打倒フェラーリ」はマーケティング戦略?
1965年のトリノショーに、ボディが懸架されていないシャーシとドライブトレインのみの「TP400」が発表された。そして、その数カ月後のジュネーブショーでカロッツェリア・ベルトーネの手による美しいボディを纏い、ミウラとしてデビューを飾った。
ランボルギーニ「400GT」に搭載されていたV型12気筒 4.0リッターエンジンを横置きに搭載した、当時としては革新的であったミッドマウント・レイアウトの2座スポーツカーの誕生だ。
1967年より「P400」のデリバリーが開始され、「P400S」「P400SV」とアップデート。1973年までに、750台あまりが生産された。
「ランボルギーニの創始者、フェルッチョ・ランボルギーニがエンツォ・フェラーリに、フェラーリ市販スポーツカーのクオリティに関するクレームを訴えたところ、まったく相手にされなかった。それに対する怒りから打倒フェラーリのためにアウトモビリ・ランボルギーニを立ち上げた」
こんなエピソードをどこかで耳にされたことがあるのではないか。
その真偽のほどはさておき、フェルッチョからのちに経営の全権を任されたエンジニアのパオロ・スタンツァーニはこう語ってくれた。
「このマーケットは、フェラーリを中心に回っていた。だから、生まれたばかりの無名メーカーにとって、王者たるフェラーリとの対比でランボルギーニに興味を持ってもらうことは1つの戦略だった」と。
イタリアの奇跡とも呼ばれた経済成長と、フェルッチョの型破りなマーケティング戦略により、ランボルギーニは順調に業績を伸しているかのように見えた。しかし、内状は……。
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