それも”ただ美しい”だけでなく、新しいミッドマウントエンジンカーのスタンダードともなる洗練された美であった。
ミウラのボディまわりは、主としてスタンツァーニが担当したが、ランボルギーニはボディの製作において大きな問題を抱えていた。
当時、フェラーリやランボルギーニのような大型スポーツカーメーカーは、カロッツェリア(ボディ製作工房)へとスタイリング開発を依頼し、そこに属するデザイナーたちが、提案を行っていた。そしてそれが決定すると、メーカーはシャーシをカロッツェリアへ送り込んだ。
ボディが載せられインテリアが組み付けられ、メーカーへと送り返されて、クルマは完成した。そのため、このカロッツェリアの選択はとても重要であった。
当初、ランボルギーニはミラノのカロッツェリア・トゥーリングへとその仕事を依頼したのだが、悪いことにトゥーリングはまもなく経営破綻してしまった。スタンツァーニらは、次なるパートナーを見つけなければならなくなった。
「ダラーラと私は1964年のパリモーターショーの会場で、あるモデルの前で釘づけになった。“ランボルギーニはこういうスタイルでなくてはならない”と私たちは意見が一致した。それは、ベルトーネによるアルファロメオ『TZ』をベースにした『カングーロ』だった。それでヌッチオ・ベルトーネを紹介してもらったんだ」とスタンツァーニ。
そして翌1965年のトリノショーで初対面となったフェルッチョとヌッチオは、意気投合し、ミウラのデザイン開発が始まった。
ベルトーネとジウジアーロ、そしてガンディーニ
ここで、イタリア車のことをよく知る方ならば、「あれ」と思ったかもしれない。
カングーロは、ベルトーネに在籍していたジョルジェット・ジウジアーロの手による作品であり、ミウラをデザインしたマルチェッロ・ガンディーニの作品ではない。ダラーラとスタンツァーニは、ジウジアーロのアイデアに惚れたのではなかったのか、と。
その答えは、こういうことだ。
現実的に2人がジウジアーロのアイデアに惚れこんだのは事実だが、当時カングーロがジウジアーロ作品であることはもちろん、ジウジアーロの名前すら知るものはほとんどいなかった。皆が判断するのは、あくまでもカロッツェリアの名前からであったのだ。
たとえば、「優雅なピニンファリーナ流」「アバンギャルドなベルトーネ」というような、カロッツェリアの持つ方向性とそのブランドが大きな判断材料となっていた。
つまり、ダラーラとスタンツァーニは、あくまでもベルト-ネの作風を気に入り、オーナーであるヌッチオ・ベルトーネの腕に期待したのだ。
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