「現実は厳しかった。新興メーカーとして設備投資などが莫大で、次から次へとキャッシュが必要となり、利益はなかなか出なかった。ランボルギーニのフィロソフィーをしっかりと訴えるような商品作りが当時はできていなかったという理由もあった」と語るのは、チーフエンジニアであったジャンパオロ・ダラーラだ。
ミウラは、ダラーラとスタンツァーニという2人の若者と、ごく少数のスタッフで開発が行われた。ランボルギーニは「フェラーリに楯突く存在」としてセンセーショナルにデビューしたが、第1号車である「350GT」は、ある意味で地味なクルマであった。
フェラーリを凌ぐ性能と品質を売り物としたが、目指したクルマは実用性を重視したGT(グラントゥーリズモ)であり、マセラティのライバルとなるようなモデルであった。しかも、フェラーリやマセラティとは違って、ランボルギーニは歴史もなければ、ひいきの顧客も少ないメーカーであったから、その“地味な”真面目さはセールスに直結しなかった。
そこで、フェルッチョは2人の若者をたきつけて、新たなチャレンジを決意した。
フォード「GT40」誕生のインパクト
「お前たちの好きなように作っていいぞ。次のモデルはグラントゥーリズモというより、もう少しスポーティなヤツだ。しかし、レースカーじゃない。このクルマは素人にたくさん売って俺たちの食い扶持としなければならない」と。
1964年は、スポーツカーの歴史が変わった年でもあった。フォード「GT40」の誕生だ。スポーツカー界は、フェラーリにル・マン24時間レースで戦いを挑んだフォードGT40の話題で持ちきりであった。
もちろんダラーラ、スタンツァーニという若き2人のエンジニアは、このモデルにノックアウトされていた。
「新スポーツモデル(=未来のミウラ)はミッドマウントエンジンで決まりだ。フォードがV8ならばランボルギーニはV12でいこう。レースカーよりも革新的なロードカーが、このクルマのコンセプトだ、と方向性はすぐに定まった」とスタンツァーニは語る。
そう、この革新性こそが、ミウラが絶賛される第1の理由である。
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