ランボルギーニ「ミウラ」は5年で生産が終了したが、後継たる「カウンタック」は何と1989年まで17年間にわたって製造が続けられた。総生産台数はミウラの750台ほどに対してカウンタックはおよそ2000台。文句なしにカウンタックの台数が勝っているが、生産された期間は3倍以上に及ぶ。いったいこのデータをどのように評価すればいいのであろうか。
第一に、カウンタックはモデナの少量生産メーカーによる単一モデルとして考えるならば大ヒットである。たとえば1967年に発表され、世界のセレブリティが憧れた大ヒット作マセラティ「ギブリ(初代)」が1300台あまりであるから、カウンタックの2000台は素晴らしい数字である。
それにもまして、1つのモデルが17年にわたって作り続けられたこと自体が奇跡ではないだろうか。なぜなら、この手の“スーパーカー”というものは、世の中に存在するフツウのクルマと比較して格別もの、かつ斬新なものでなければならないからだ。
生産終了が1989年だったわけ
一般的に見れば、どんな画期的なモデルでも、5年くらい経てばその衝撃は薄れてしまう。世の中のトレンドが絶えず動いているにもかかわわらず、17年も人気を保つということは、いかにカウンタックが独創的な存在であったかを証明している。
「カウンタック」誕生の裏にいた若き天才の存在でも書いたように、革新的なレイアウト、そしてユニークなスタイリングを持つカウンタックの魅力は、その生産が終了する1989年にあっても揺るがないものであった。カウンタックの後継である「ディアブロ」のチーフ・エンジニア、ルイジ・マルミローリはこう語る。
「カウンタックはもはや神話だった。そのすべてがいまだに斬新なものであり続けていたし、それに追従するライバルも存在しなかった。だからカウンタックの後継を作ることは、容易ではなかった」と。
そう、ルイジはこの“カウンタックの亡霊”から離れるきっかけを作るため、当時のランボルギーニのオーナーであったミムラン兄弟から、チーフ・エンジニアとして白羽の矢が立った。そして、そのDNAをうまくディアブロで開花させた。
そんなにカウンタックの魅力が色褪せないのなら、もっと作り続ければよかったのでは、と思うかもしれないが、話はそう簡単ではない。
何せカウンタックは、1960年代のスポーツカー文脈で設計されたクルマだ。厳しくなった安全規制や環境問題に対応させるためにあらゆる手段がとられたが、それも限界にきていた。実は1989年の時点で、EU諸国において市販車として販売が可能なホモロゲーションが切れる寸前であったのだ。
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