湊さんの性格は、火事を境に大きく変わったといいます。弟が生まれるまでは一人っ子でしたから、両親にも祖父母にもそれはかわいがられて、子どもらしくのびのびと育っていたそう。しかし火事が起きてからは、つねに「お姉ちゃんだから、ちゃんとしなきゃ」と思うようになり、20代後半で実家を離れるまで、店のことでも何でも「自分がやらなきゃ」という思いが抜けなかったということです。
毎日がキャンプみたいで楽しかった車中泊の生活
火事から1年ほど、湊さんと弟たちは祖父母の家で暮らしていました。当時、両親がどこで生活していたかはわからないのですが、母親はよく子どもたちの世話をしに祖父母の家に来ていたそう。しかし、祖父母は「ここには来んでいい、新しい店の準備に行きなさい」と追い返すので、母親はつらそうでした。そんな母の姿を見る湊さんも、つらかったようです。
母親と子どもたちが車中泊をしていたのは、火事から約1年が経ち、店を建て直した後だったようです。この時期の記憶もおぼろですが、「お風呂に入れなかったから、店の流し場で身体を洗った」ことは覚えているそう。
「毎日キャンプみたいで楽しかったことは、よく覚えています。楽しいというか、祖父母のそばにいなくていい。それまで、ずっとストレスを感じていたので。母親も環境が変わって子どもといるようになって、つらそうじゃなくなって。大変だけど生き生きしている、というのは感じていました。
朝ごはんはいつも母が仕入れに行った朝市で、屋台のうどんやおにぎりを食べていました。私たちが毎朝現れるから、いろんなおじさん、おばさんからかわいがってもらって。ランドセルとか必要なものは全部車に乗っているから、そこから学校に行っていました。楽しい記憶ばっかりなんです。朝市の活気とか、野菜のにおいとか、断片的なことだけ、よく覚えています」
しかし、いくら楽しくても車中泊です。永遠に続けるわけにはいきません。店が完成して間もなく、母親は店の近くにアパートを借り、子どもたちはそこから学校に通うようになりました。行きは母が送ってくれますが、帰りは子どもたちだけ。湊さんは学校の近くにある保育園に弟たちを迎えに行き、30分以上バスに乗って、アパートまで帰っていました。
「弟たちを連れて、友達とちょっと原っぱで遊んだりしたあと、ほかの子はまだ遊んでいるんだけれど、『バスの時間だから』と言って弟をおんぶして、バスでアパートまで帰るんです。そういうとき、バスの運転手さんや周りの見ず知らずの人が『お姉ちゃん、えらいね、頑張ってるね』と言ってくれるのはうれしかったです。
親しい人のほうが『子どもにこんなことさせて、かわいそうに』と言ったりして、それが嫌でしたね。そう、親が責められている感じがして。私は親の役に立ちたいと思って我慢していたのに、そう言われたら、私の頑張りが無になってしまう、みたいな」
両親がこれ以上周囲から責められませんように――。火事が起きて以来、湊さんがいちばんに願ってきたことです。「子どもにこんなことをさせて」と思ってしまう大人の気持ちもわかりますが、当の子どもにとっては、最も言ってほしくない言葉だったのでした。
2度の転校も、非常に大きな出来事でした。1度目は火事から3カ月後、3年生になるときに祖父母の家の近くの小学校へ。2度目は5年生の途中から、母が借りたアパートの近くの学校へ。
「ストレスでしたね、友達が全部変わってしまうので。とくに5年生のときは、思春期に入る頃だし、新しい小学校になじめなかったので、学校に行きたくなくて、行きたくなくて。小学校に入った頃は私、だいぶ活発でやんちゃな子どもだったんですけれど、転校のたびに、どんどん引っ込み思案になっていきました」
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