なお、この頃父親がどこで生活していたかは、よくわからないそう。おそらく、店の一角に寝泊まりしていたのでしょう。父親はその後も離れて暮らしていましたが、湊さんが大学生のときに病に倒れてしまいます。それから亡くなるまでの間は、毎週のように家族が病室に集まり、いい時間を過ごせたということです。
あの頃の自分に「弱音を吐いていいよ」と言ってあげたかった
子どもの頃、どんなふうだったら、多少ともつらさを感じずに済んだか? 尋ねると、湊さんは「親でも先生でもない、話を聞いてくれる人がほしいと思っていた」と言います。
「とくに5年生で転校してからは、両親の不仲を目の当たりにするわけですよね。店は一緒にやっているけれど、明らかに仲がよくなくて、別々に住んでいる状態。学校も嫌だし、家も嫌。その時期がつらかったので、逃げ場所がほしかったなって思います」
こうだったらよかった、と思っているだけではありません。なんと湊さんは、子どものとき「いてほしかった大人」に、自らがなっていました。司書の資格を取って、中学校の図書室で働いていたのです。
「たぶん、誰も頼れなかったあの頃の自分に、『だいじょうぶ、あなたが弱音を吐いていい場所はここにあるよ』って言えるポジションになりたかったんですね。でも結局、正規職員になれなくて食べていけなかったから、いまは別の仕事をしていますが。でも本当は、お金はどうでもいいっていうくらいその仕事を続けたくて。
子どもたちも私が離職するときは泣いて見送ってくれて、親御さんからもお礼の手紙をいただいたりして。スクールカウンセラーやソーシャルワーカーの方につないだり、『そこまでは司書のやることじゃないだろう』ってところまで、ちょっと越権してしまっていたと思うんですけれど」
子どもたちにとっても、保護者にとっても、こんな大人が子どもたちの近くにいてくれたら、どんなに心強いでしょう。
「子どもたちは昼休みや放課後に(図書室に)来るんですけれど、1回、2回で話すわけじゃないんです。2カ月とか3カ月とかちょろちょろ来ながら、『おや?』と思うような言葉をぽろっと漏らす。つらくても子どもなりにプライドがあるから、そのつらさを簡単には大人に見せたくないんですよね。言えばやっぱり親が責められるっていうのもあるし。
学校司書っていろんな勤務の仕方がありますが、私はフルタイムでいられたのでよかったです。週に何回かだけとか、昼休みだけとかだったら、関係は築けなかったと思うので。司書じゃなくてもなんでもいいんですけれど、いつも『同じ人』っていうのが、子どもには大事かなって。そういう立場になれたらって思います」
オンラインの取材が終わって間もなく、湊さんから、取材の途中で泣いてしまったことを詫びるメールが届きました。でも正直なところ、私は少しうれしいような気持ちを感じていました。ちょっと彼女の役に立てたような気がしたからです。
子どもにも大人にも、あらゆる人に、「弱音を吐ける場所」があってほしいものです。
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