十字架にかかったイエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んだ。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味らしい。この挿話は最初に成立したマルコによる福音書にも出ている。ぼくは男の伝記を書こうとしているのだろうか。マルコのように? いったい何を書くつもりだ。自分で言ったばかりではないか。すでに彼については多くの本が書かれていると。いまさら何を書こうというのか。会ったこともない男の伝記を書くつもりなのか。
だが伝説の多くは、実際にまみえることのなかった者たちによって紡がれたものだ。1人の人間が伝説になるには、おそらく物語る者との間に時間的、空間的、さらには心理的な距離が必要なのだろう。そうして生まれた物語が、後世の者たちにとって都合のいい虚構という面を持つのは確かだ。一方で、事実に即した伝記よりも、より本質的にその人物を描き出すこともある。だから伝説として長く残っていくのだろう。
マルコの物語はイエスが死んでから約40年後、紀元70年以降に初めて書かれた。伝記作者としてのマルコは、イエスの信奉者によって数十年の間にあちこちに広められていた口伝や、わずかではあるが文書化された伝承などを集めて、そのなかから思いのままに取捨選択した。彼は年代記的な物語に伝承の寄せ集めを加えることによって、「福音書」(古代英語で「いい知らせ」を意味する)と呼ばれるまったく新しい文学ジャンルを生み出した。(レザー・アスラン『イエス・キリストは実在したのか?』(白須英子訳、文藝春秋、2014))
ジョブズも伝説化されていくだろう
ぼくが探している男も、やがてイエスと同じように脚色され、伝説化されていくだろう。彼が起こした会社や、世に送り出した多くのプロダクトとともに、存在そのものが歴史のなかに位置づけられるはずだ。エジソンやフォードのように。そうした流れに加わる者の1人になろうということなのか?
いや、そうではない。描いてみたいのだ。ぼくなりの彼を描いてみたい。それは伝記や評伝というよりは創作に近いものになるかもしれない。1人の男を創作したいのだ。ぼくの心の風景のなかに彼を立たせてみたい。現実の物理的な世界を生き、人々の心をつかむメッセージを発し、数多くの魅力的なプロダクトを世に送り出し、巨万の富を手にし、最期は病に倒れた男がいた。その男を、ぼくの心の空間でもう1度生かしたいのだ。彼の名前はスティーブ・ジョブズ。
(第2回に続く)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら