「日本社会」と「西洋社会」の決定的な違い 山折哲雄×安西祐一郎(その4)

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コミュニティを作る2つの条件

山折:私には一種の持論みたいのがあります。それは近代社会の人間観の根本は、「人は疑うべきである」というところにあるのではないかということです。デカルトの言う「われ考える、ゆえにわれあり」は、つまりは「われ疑う、ゆえにわれあり」だと思うんです。これは、あくまで個人的な解釈ではあるんですが、もしも人を疑うことが根本を成しているような社会では、そもそもコミュニティを作ることができませんね。

そこで、その代わりにそれをコントロールするために二つの条件が西洋社会には存在したのではないかと思うようになりました。一つは超越神の存在です。超越的な価値と言ってもいい。その超越的な価値と個人との垂直な関係を軸にして、その疑わずにはいられない個人を内面的にコントロールする。これが第一の条件。

次の第二の条件が契約の精神ではないでしょうか。あの徹底した契約の精神というのは、どう考えても人は疑うべきであるという考え方が前提にあるような気がします。われ疑う、ゆえに我ありの考え方です。この2つの条件があるから、西洋の近代社会は、コミュニティとしても、民族国家としても、成り立っていると私は思うようになりました。

それに対して、日本の場合はどうかというと、日本は多神教の世界ですから、超越的な価値と言うのはありません。それでは、契約の精神があるかというと、歴史家によっては、中世以降、多少はあったという人もいますが、西洋の契約の精神に比べると非常に弱い。

判断基準は“情が動くか”

山折:その2つの条件を欠いて、「人はなお疑うべき存在だ」という規範と人間観を持ち込んだら、国家も民族も成り立ちませんから、そこで、どうしようもなく人間は信じ合わなければいけないという規範を作り出したのではないか、と。そして、信じ合わないといけないという規範の中から、よく言われる日本社会の集団主義というものが出てきた。

この構造はどうも乗り越えることが難しい。けれども、本当のところは、先生がおっしゃったように、もしかすると日本人というのは心の底では他者を疑っているのかもしれない。そして西洋人のほうが、他者を信用しないといけないと思っているのかもしれない。集団主義の方が、個人としての他者を信用しようとしないのかもしれない、ふと、そうも思いました。

そのうえで、西洋社会とどう付き合っていくのか。どうしても理解できない他者とぶつかったら、どうするか。いうのをしばしば思い出す、そういう時に通じ合う入り口は、私の場合は「感ずる」道をみつけるほかはない。情が動くかどうか。

安西:これは万国共通ではないかと思います。文化によって違いはあると思いますが、何か気持ちが動くというか、共感という心の動きは大事にすべきですし、その経験を多く積む事が学びだと思います。

山折:おっしゃるように、これからの若者はどんどん外国に行かないといけないし、行けば必ず何かを得て帰ってきますよね。

安西:外国で一人きりになったとき、帰るところが自分にはある、神話の時代から続く日本の大地がある、ということを実感することが大事なのではないでしょうか。外国に行くのは、英語を学ぶためではなくて、日本人としての教養を本当に自分の判断基準として血肉化するために、いろいろな人と付き合い、いろいろな体験をするのがいちばん大事だと思います。だから外国に行ってもらいたい。

山折:そう思いますね。

(構成:佐々木紀彦、撮影:今井康一)

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