能・狂言が600年続く伝統になれた根本的理由 時の権力者に愛され保護されてきた歴史がある

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日本文化の底流はどのように形作られてきたのか(写真:しゅう/PIXTA)
能や狂言=能楽という古典芸能について、関心はあってもなかなか縁がない人は少なくないだろう。実は能楽には600年以上も歴史があり、時の権力者が大きくかかわっていたこともある。
「『能・狂言』の趣を知らない人に教えたい超基本」(2020年5月7日配信)に続いて、『教養として学んでおきたい能・狂言』から、能楽の歴史を紐解いた同書第7章の一部を抜粋して掲載する。

秀吉の能狂い

能楽が600年間、その伝統をなぜ維持できたのか? それは絶大な権力者が能に耽溺(たんでき)し保護してきたからだ。足利義満も徳川家康もそうだが、極端なのは太閤さん。豊臣秀吉だ。

信長の草履取りだった藤吉郎時代から「おもてなし」の猿楽には遠くから接してきたはずだ。しかし秀吉が生涯好んだのは茶の湯。にもかかわらず、わびさび精神に反抗するかのごとく金の茶室を作り、それを苦々しく思った千利休は庭の朝顔を全部摘み取ってしまった、という伝説を残す2人の愛憎の日々は多くのドラマを生んだ。

結局、利休に切腹を命じた後、なぜか秀吉は能に溺れ始めた。時に秀吉57歳、人生の最晩年。死までの6年間に過ぎない。ところが、その熱愛は尋常なものではなかった。

具体的には朝鮮攻めの最前線基地、肥前の名護屋に城を構え、戦場で能舞台を仮設し連日、能を楽しんだ。それも観客としてではなく、能舞台で秀吉自身が演じたのだ。いちばん好んだのは『源氏供養』。紫式部が源氏物語の供養をしなかったため成仏できなかったと僧に救済を求める物語。これを生涯に7回演じた。また能の秘曲とされる小野小町の老残の姿を描く『関寺小町』まで、5回も勤めるほどの自信があったようだ。

伏見城での記録では文禄4年(1595年)5月24日『高砂』『邯鄲』など1日に五番も演じている。どれほど熱狂していたかがわかるだろう。

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