能・狂言が600年続く伝統になれた根本的理由 時の権力者に愛され保護されてきた歴史がある

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宮中では雅楽。幕府は猿楽が儀式に採用され、武家社会の必須教養になった。それゆえ、各流儀で研鑽(けんさん)を重ね、演能の工夫、装束の洗練化、なにより技能の向上が、安定した経済生活の上になりたった。

ひとつの例でいえば、能衣装だ。正しくは衣装ではなく装束(しょうぞく)という。いまも伝承、保存されている各家の名品がある。面(おもて)もそうだが、着することによって傷みがすすむ。使用してこそのものなのでやむを得ない。それを復元する能装束研究者・山口憲(あきら)から教わったが、ハイテクノロジーの現代でも再現できない質の高さが、江戸の作品にはあるそうだ。

絹糸から違う、いやそれを育てる桑畑の土壌の豊かさ、蚕の逞しさ、紡ぐ技術から違うといわれ、絹糸の束を持たせてもらった。江戸の技法をぎりぎりまで再現して紡いだものは、現在世界最高級のシルク束と握り比べ、格段に輝き、ふんわり感が違う。なにより軽い。

また染め上げる紅花(べにばな)の質も現代では作れない高品質の素材だという。こうして織り上げ、仕立てた能装束は重厚な仕上がりだが、身にまとうと軽く、光沢がある。伝統工芸の粋を尽くせたのは時間と経費と労働力をふんだんに得られた幕藩体制のおかげだという。

日本の最高レベルのものはこの時代に誕生

一事が万事、日本の最高レベルのものは、この時代に生み出された。「わびさび」は決して、くすんだ色合いではなく、陽光に、篝火に照り映えていたことをこそ知るべきだろう。歴代の将軍家にならい、各大名家でも能役者を受け入れ、能楽の隆盛につながっていく。

また、かつては1日中、能を十番も上演していたときもあったが、儀式では五番立という形にまとまってきた。

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能舞台や、鏡板の松、橋掛かりの位置なども江戸時代に全国共通の仕様が確立していった。中央集権のおかげかもしれない。

ちなみに、照明装置がないなか、なぜ1日十番もできたのか。それは、同じ曲でも上演時間がいまの3分の2から半分近くだったのではないか、という研究がある。つまりアップテンポだったという。これが、江戸期に作品解釈や演出が洗練され、現在のゆったりした演出、夢幻、幽玄世界の創案がこらされたのではないだろうか。

それもひとえに豊かな経済状況と、大名貴顕の教養世界、さらには面装束、楽器、道具類の高級化が、独特の武家文化のひとつを形づくり、現在の日本伝統文化の底流を作り上げていったといえるだろう。

葛西 聖司 古典芸能解説者

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かさい せいじ / Seiji Kasai

NHKアナウンサーとしてテレビ、ラジオのさまざまな番組を担当してきた。現在はその経験を生かし、歌舞伎、文楽、能狂言、邦楽など古典芸能の解説や講演、セミナーなどを全国で展開。 日本演劇協会会員(評論)、早稲田大学公開講座、NHK文化センター、朝日カルチャーセンター、山梨文化学園講師。著書に、『僕らの歌舞伎』(淡交社)、『文楽のツボ』(NHK出版)、共著に『能の匠たち』(小学館)など著作も数多い。

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