コロナ禍「戦争」に例えることの違和感と危うさ 封鎖措置1カ月のイタリアを見て考えた

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そして3つ目は、コロナウイルスにまつわる言葉や表現の在り方だ。すでに多くの人は気がついていると思うが、イタリアをはじめ世界各国で、新聞やテレビのニュース、知人との会話の中でコロナウイルスについて語る時、使われる言葉や表現は、「戦争」のボキャブラリーに限りなく近い。

ウイルスは私たちの人生を侵略した強力な敵、病気は闘い、医療施設は戦場、医師や看護師は命を捧げているヒーローたち……といったような具合に。一部の国では、唯一営業が許されているスーパーの店員やレジ打ちですら「英雄」として絶賛されている。

張本人は「ヒーロー」になったつもりはない

ヴェネツィアの郊外でディスカウントストアを経営している友人は、休みなしで働いている。複数のお店が入っている大型の商業施設は営業停止しており、また必要な買い物でも、最短距離で済ませなければならないというルールが導入されているため、今まで存続すら怪しかった個人経営のお店はとにかく忙しい。大型スーパーとの競争に負けないためにギリギリのスタッフで回していた店舗が急にみんなの生活の中心になったわけだ。

そして、そこで働く人々のプレッシャーも大きい。友人曰く、最近は急にお礼を言われたり、褒められたりすることは多くなったが、本人はヒーローになったつもりはまったくないので、その言葉に当惑するばかりだという。

言葉は大切である。何かを描写したり、定義をしたりする際に使う言葉は、その現象をどのように理解しているかを表しているからだ。いうまでもなく、「戦争」というのは1つの比喩として用いられるが、それは今私たちが必要としている協力や思いやり、責任感のある行動からほど遠いニュアンスを持っている。

緊急事態でありながらも、戦争ではないので、良識のある行動が求められるだけだ。それを忘れたら、秩序を守るのが難しくなり、パニック買いなどが起こりやすく、ただでさえ状況が不安定なのに、悪化しかねない。

また、第一線で働く人たちを祖国に命を捧げているヒーローたちに例えるのは、彼らが今抱えている問題にただふたをするということに等しい。十分な休息が取れて、身の安全が保障されている環境で仕事し、行った業務に対する十分な報酬をもらう、という権利が彼らにはあり、「ヒーロー」という輝かしいレッテルを貼られたからと言って、それがなくなるわけではない。

長丁場になることが予測されているからこそ、今回起こっている現象を正しく理解し、正しく付き合う必要があり、それは毎日選んでいる言葉から始まる行為である。自分と関係ない「外国の物」でもなければ、勃発をした「戦争」でもない。

これはイタリアの話でありながらも、国名はほかのものに差し替えてもいいだろう。どこでも同じようなことが起こっているからだ。それを踏まえて、自分たちは今何をすべきかを考える時期はすでに到来している。

イザベラ・ディオニシオ 翻訳家

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Isabella Dionisio

イタリア出身。大学時代より日本文学に親しみ、2005年に来日。お茶の水女子大学大学院修士課程(比較社会文化学日本語日本文学コース)を修了後、イタリア語・英語翻訳者および翻訳コーディネーターとして活躍中。趣味はごろごろしながら本を読むこと、サルサを踊ること。近著に『悩んでもがいて、作家になった彼女たち』。

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