文章でひも解く明智光秀が信長討った真の狙い 命運を分けた「コミュニケーション」能力

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永禄12年(1569年)正月、光秀は確かな記録『信長公記』(太田牛一著)の中で、信長が京を留守にした機会を捉えて、三好三人衆が、信長の後押しをする15代将軍・足利義昭を京の六条・本圀寺(ほんこくじ)に攻めた折、立てこもって奮戦した多くの人数の一人に数えられていました。

それがわずか2年後、元亀2年(1571年)9月には、織田家筆頭家老の柴田勝家、信長のお気に入りの羽柴(のちの豊臣)秀吉らを差し置いて、織田家中で最初の「城持ち」(城将ではなく領地つき城主)の身分となりました。

拙著『心をつかむ文章は日本史に学べ』でも詳しく解説していますが、なぜ光秀は、「中途採用」でありながら、織田家においてこのような異例のスピード出世を遂げることができたのでしょうか。

言葉の問題が大きかった

とっかかりは、意外にも「コミュニケーション能力」でした。

この時代には、われわれが考える以上に「言葉の問題」がありました。室町時代の後期=戦国時代には、そもそも明治に創られた標準語が存在しませんでした。信長は丸出しの尾張弁を話し、光秀が仮に美濃出身者ならば、彼はどうにか隣国の信長の言葉が理解できたはずです。九州の人と関東・東北の人が京の都で出会ったとしても、おそらく会話は成立しなかったでしょう。

江戸時代に入っても、コミュニケーションの基本であるこの言葉の問題は、なかなか解決しませんでした。筆談=「文章」にして相手にそれを見せ、相手も「文章」で応ずるか、さもなければ謡(うたい=能の声楽部分)の節をつけ、言葉を発して理解を乞うかで、ほかに方法はありませんでした。

江戸時代、「火事とけんかは江戸の華」といわれましたが、なぜ、けんかが頻繁に起きたのか? 筆者は「言葉が互いに通じなかったから」だと考えてきました。これでは諸事に困るということで、武士の世界では、諸藩は藩士を代々、江戸に住まわせて「江戸っ子」をつくり、標準語に近い共通の言語を、ようやく持つことに成功しました。

戦国時代は大変です。こうした方言に加えて、「男言葉」と「女言葉」が分かれていたのです。平安中期に書かれた随筆『枕草子』には、聞いて違った感じを受けるものとして、清少納言は、法師の言葉と男の言葉、女の言葉、下衆(げす=身分の低い人)の言葉をあげています。

例えば、味のよいことを男性は「うまい」といい、女性は「いしい」といいました。これに接頭語が付いて、今日の「おいしい」が誕生したのです。

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