文章でひも解く明智光秀が信長討った真の狙い

命運を分けた「コミュニケーション」能力

戦国時代の日本では、このように男性言葉と女性言葉が峻別されており、さらには身分上の独特の言い回しがこれに重なり、そのうえでの地方の乱雑な言葉が入り乱れた時勢でもありました。到底、いずれも同じ日本語とは思えないし、聞こえません。

言葉すらが、この調子です。礼儀・仕来(しきたり)の煩雑さは相当なものであり、室町風の武家が操る礼式言語=「外交」には、専門職が成立していました。

室町幕府が成立した折、殿中作法が定まっておらず、諸大名は雑然とたむろし、喧騒するだけで、いずれが上位者か下位の者か、それすら明確化されていませんでした。貴人をそれなりに迎え、応ずる作法がなければ、将軍といえども尊重されるはずがありません。慌てた幕府は、行儀作法に弓馬術――つまり武芸の作法に、禅の「清規」(修行上の約束事)を加えた礼法を、小笠原貞宗に創らせました。これが小笠原流礼法です。

これを当時の流行語では別に、「行儀」といいました。狭くは振る舞い・仕業(しわざ)のことであり、広くは立ち居振る舞いのすべてを指しました。

筆者は、明智光秀が織田信長に最初に認められたのは、この「外交」の専門職としてではなかったか、と推察してきました。加えて、行政官もできれば、合戦の采配を振らせても、光秀は抜群の才を発揮しました。信長の「天下布武」を助け、王手までもっていった最大の功労者は、光秀であった、と筆者は考えています。

その織田家一の出世頭、ナンバーツーともいうべき彼が、ではなぜ、「本能寺の変」を起こしたのでしょうか?

光秀を「本能寺の変」に向かわせた理由

筆者は、信長とのコミュニケーション不足――本来、筆も文章も得意のはずの光秀が、心身の疲労から、あえてコミュケーションを自ら断つ方向へ向かったことが、何よりも大きかったように思います。

光秀は諸文献上、信長より6歳以上、18歳以下の年上となります。その光秀が、天正4年(1576年)11月に、糟糠(そうこう)の妻を病で亡くし、自らも病床に伏してしまいます。同じ頃、光秀の同僚であり、織田家の最高幹部=方面軍司令官の一人であった佐久間信盛が、大坂本願寺攻めの長期化、不首尾を理由にクビになり、高野山へ追いやられる事件が起きました。

同様に、信長の幼少期から仕えた老臣・林秀貞や美濃併合に活躍した安藤守就(もりなり)などが、それこそ取るに足らないような理由でクビになる事件もありました。

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