文章でひも解く明智光秀が信長討った真の狙い 命運を分けた「コミュニケーション」能力

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光秀は心身ともに疲れ切った頭で、自分の行く末を考えたことでしょう。九州ゆかりの「惟任(これとう)」の姓と「日向守」の官名を、彼は信長から授けられています。好敵手である羽柴秀吉の中国方面軍の次は、自らが九州征伐に臨まねばなりません。

このとき、光秀は、自らの未来を悲観したのではないでしょうか。すでに、何でも相談できる唯一の、妻もこの世にはありません。疲労した頭でふと魔がさしたように、「今なら信長をなきものにできる」と。

光秀は「空白地帯」の京の都へ、信長が少数の供だけを連れて入ってくることを、誰よりも詳しく知っていました。信長の盟友・徳川家康も上洛中で、堺にいることも、光秀は当然、熟知しています。

天生10年6月2日…

天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺を急襲して、信長を滅ぼしました。6月5日には秀吉の属城・長浜城と丹羽長秀の居城・佐和山城を陥落させています。

しかし、最も頼みとする親戚である細川藤孝・忠興父子への相談は後回しにしてしまい、そのため「三日天下」は決定的となりました。

結局、光秀は「中国大返し」で畿内へ駆けつけた秀吉の軍勢と山崎に戦い、一敗地に塗(まみ)れて、最後は落武者狩りの農民の手にかかって、その生涯を閉じました。

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光秀がなぜ、得意の文章力・コミュニケーション能力を駆使して、「三日天下」を「不朽の天下」にする努力をしなかったのか。いえ、それ以前に、主君・信長との溝をどうして埋めようとしなかったのか。それを筆者も理解できずにいるのが正直なところです。

妻を失ったとき、病後の体調の優れなかった段階で、光秀が得意の文章力・コミュニケーション能力を発揮して、自らの隠退を信長に認めさせていれば、日本の歴史は大きく方向を変えたようにも思われるのですが。

光秀の悲劇は、現代でも形を変えて起こりうるものです。われわれは、先人の知恵・言動に学ぶべきかもしれません。

加来 耕三 歴史家、作家

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かく こうぞう / Kozo Kaku

歴史家・作家。1958年大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業後、同大学文学部研究員を経て、現在は大学・企業の講師をつとめながら、独自の史観にもとづく著作活動を行っている。『歴史研究』編集委員。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。政経懇話会講師。主な著書に『日本史に学ぶ一流の気くばり』『心をつかむ文章は日本史に学べ』(以上、クロスメディア・パブリッシング)、『「気」の使い方』(さくら舎)、『歴史の失敗学』(日経BP)、『紙幣の日本史』(KADOKAWA)、『刀の日本史』(講談社現代新書)などのほか、テレビ・ラジオの番組の監修・出演も多数。

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