香港デモ激戦区「元朗」に住む日本人一家のいま それでも彼らが「日本」に帰らずとどまるワケ

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「2回目は、11月18日の夕方6時くらいに、何文田(ホーマンティン)の友達の家に忘れ物を取りに行った時です。何文田駅を出たところに橋があるのですが、橋の上にデモ隊、下に警官。橋の上は、手すりだけだと下からすぐ撃たれてしまうので、デモ隊が橋げたの上にブロックで壁を作っているんですよ。

警官隊の様子が見えるように、編み目みたいにして積み上げている。で、その間を狙って催涙弾、ビーンバック弾、スポンジ弾なんかが飛んでくる。そんな臨戦態勢なのに、その橋の上を、マスクをしたおじいちゃんやおばあちゃんがガラガラ(ショッピングカート)を引いて普通に通っていく。シュールな光景でした」

何文田駅前で焼かれた警察車両(写真:西城秀之さん提供)

夜の8時前後、何とか迂回路を見つけようと歩き回っていた秀之さんだったが、うっかりデモ隊と警官隊が衝突する現場の真っただ中に出くわしてしまう。

「この時もたぶん催涙弾が飛んでいました。最初の1~2秒は何も感じないんだけど、そのあと一気に顔面にコショウかけられたような、熱い熱い。涙を出したくないけど、本当に我慢しきれない」(秀之さん)

慌ててペットボトルの水で洗い流したものの、応急処置はそれで終了。「ちょっとヒリヒリはしますが、家に帰ってシャワーを浴びれば大丈夫でした。後遺症はとくに感じません」(秀之さん)と言う。

日本に帰る気はまったくない

散々な目に遭っているように見える西城夫妻だが、日本に帰る気はまったくないと断言する。

「香港でキャリアを積んできました。40歳手前で日本に戻っても、同じ待遇では仕事がありません」(美沙さん)。「僕は日本では仕事ができないんです。同質の人たちの中にぽんと入れられちゃうから、僕である意味がなくなっちゃう」(秀之さん)。

美沙さんが香港にやってきたのは2006年のこと。新卒入社で2年間、NTTの総合職として働いていたが、どうしてもCAになりたかった。

「香港では住み込みヘルパーを雇えるから、ワーキングマザーとして本当に働きやすい。フライトで家を空けるからなおさらです」(美沙さん)

秀之さんは2005年の夏、大学4年生の時に上海の復旦大学に語学留学して以来、ずっと上海や香港でキャリアを積んでいる。

「最初は欧米に行きたかった。でも『時代は中国かな』と思って。たまたまその時、日本の大学の先輩に中国人がいて、その人から『復旦大に戻るから、お前もくれば』と言われて。面白いかなと思って着いていって、1年半北京語をみっちり勉強しました」(秀之さん)

夫妻が結婚したのは2015年。美沙さんは第一子を出産する際に1度日本に帰国し、長女が3カ月になったタイミングで子どもとともに戻ってきた。当初は、秀之さんの仕事の都合もあり、中国本土の深セン市に住んでいたという。しかし、美沙さんの職場は香港の航空会社のため、フライトのたびにイミグレーションを超えて出勤しなければならない。片道3時間はゆうにかかるため、現実的ではない。

「香港と違って、深セン市にはフィリピン人ヘルパーを呼ぶ制度がありません(※香港の場合は、政府がフィリピン人ヘルパー専用のビザ制度を設けている)。また、ここ1~2年は治安もかなりよく、住んでいる人々も裕福になったと思いますが、当時は誘拐も少なくありませんでした」(美沙さん)

「セキュリティーが整ったマンションに一家で住むとなると、1万元~1万2000元(1元=15.5円として約15万5000円~18万6000円)くらいはかかると思います。深センも家賃がどんどん上がっているので、香港とあまり変わらなくなってしまうんです」(秀之さん)

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