教職課程はクビ、インテルも退職、のち起業 業種のボーダーを越え続けた彼女が、「無駄な経験」をしない理由

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ブドウ狩りにウエイトレス、そして、インテルへ!

その後は、友人の家族が営むワイナリーで、住み込みのブドウ狩りアルバイトをし(てボヤ騒ぎを起こし)たり、有名店のウエイトレスとしてチップをどっさり稼いだり、カルチャースクールで「マクラメ編み」の教室を開いたり。

てんでバラバラの職歴を積み重ねていく。

そんな経験の後に、ついには、ジェンガを売り出すための会社を立ち上げることにもなっていくのだが、ここでは、それ以前、彼女にとって極めて大きな転機をつくったと言える仕事に触れておきたい。

レスリー・スコットは、創業期のインテルに勤務していたのだ。

友達のつてで、最初は簡単な事務仕事をするアルバイトをしていた。しかしレスリーが、絶えず「これは何?」「どうしてですか?」「どうやるのですか?」「すごい!」などと連発するのを止めるためか、早々に封筒詰めの臨時雇いから正社員への昇格が決まったという。

米国サンタクララにある本社から発信される膨大な情報の整理と普及のため、技術資料ライブラリーを立ち上げて管理することが新しい仕事になった。

この正社員登用が、めったにないサクセスストーリーの側面を持つとしても、彼女が自力で着々と道を切り開いてきたというのは事実で、それは正社員昇格後も続いた。

数カ月後には、インテルの広報コンサルタントや報道関係者、そのほかインテルに興味のある人々への窓口に。1年後には、英国インテルのマーケティング・コミュニケーション・マネジャーに昇進したのだ。

この役職と肩書きは、彼女がやってきた業務を定義するために新たに作られたものだった。

レスリーは当時まだ22歳で、コンピュータもマーケティングも広報もまったく経験がなかったが、1978年には英国内での広報宣伝活動を一手に任されるようになった。そして、マイコン全般、とりわけインテル製品の情報に対する、増える一方の需要に応えるべく奮闘するようになる。

そうして多くの業務を担い、インテルが徐々に大企業然としてきたとき、入社から4年ほど経った頃に、彼女はインテルを後にした。

この潔いこと。なんとももったいない…!と思ってしまうのは、凡人の発想だろうか?

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