「隣国は憎たらしい」が人類のデフォルト?
私は最近、スペイン人の友人にマドリッドの闘牛について話していたのだが、その人はバルセロナ出身だったので、「マドリッドとは違う、野蛮だからやめてほしい」と強い不快感を隠さなかった。
日本とかにいるとあまり知られていないことだが、カタルーニャとかバスクとか、民族問題や独立問題で政治的にセンシティブな話題は多いので、“スペイン人”とひとくくりに扱うことにセンシティブな人も少なくないのだ。これは、スペインは長らく独立国だった複数の国をスペインが征服する形でつくられた歴史的経緯があり、これが最近のカタルーニャ独立住民投票やバスクでの独立闘争などの根底にある。
ほかにもカンボジアとタイが領土をめぐって争っていて関係が敏感だったり、パキスタンとインドはクリケットの勝敗をめぐってお国を挙げての大騒ぎだけでなく領土問題でも葛藤が大きかったり(なお有名なガンジーは他宗教地域の分離独立を認めたことが原因で暗殺されたともいわれる。どこの国でもリベラルな指導者は国粋主義者の凶弾にさらされるようだ)、アイルランドとイギリスで敏感な歴史問題があったりする。
これらは私がこれら各国の友人に直接聴いた話だけに、「結局、どこの国も、隣国といちばん葛藤が多いのだ」という確信に至った。
他国の視点はつねに入ってこない
ちなみにパキスタンというと、西側メディアではテロリストやアフガンへの支援という文脈でよく語られてきたが、パキスタンの友人と話したことがあるので彼らの視点を紹介しよう。
彼らは、アメリカがソ連に対抗するためにアフガンに武器を大量に渡し、今度は自分の都合でアフガンに侵攻するときにはパキスタン軍に一緒にアフガンと闘えと言うが、アフガンは文化的にも民族的にも親族の国であり、兄弟を殺せと言うようなものだ、と憤る。
またパキスタン人の彼はアフガンの難民施設にボランティアに行ったときに、現地で米軍の爆撃で親や手足のない子供が数多くいて、そんな子供たちが、将来、アメリカに復讐したいと言っているのを見て、そんな子供たちに何といえばわからず泣いたと語っていた。
私の身の回りの友人の例をとっても、中東の友人とイスラエルの友人に深刻な葛藤があったり、レバノン人に無邪気にクリスチャンかムスリムか聞くことは極めてセンシティブだったり、南米の人は歴史的背景もさまざまで「コロンブスが米大陸を発見した」という一言で気を害したり(元から住んでいた人にとっては、侵略されただけなため)、ドイツにもナチスを痛切に反省しつつも、第2次大戦で先に侵攻してきたのはロシアだと主張する人もいる。
ひとつの国の人が思っている常識は、ほかの国から見ればとんでもない非常識であり、隣国の視点にはつねに目をそむけがちで、私たちが思っている文化的・歴史的常識も、不可避的に一方的で偏見だらけなことに謙虚になる必要がある。
要するに私たちは物事の至極一部しか知らず、全体を知ることなどできないのだから、せめて自分が無知なことだけは知っておかなければならないのである。知的な生き方とは、自分が無知であることを認識することからスタートするのだ。
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