日本初のW杯で主将、井原正巳の苦悩と充実感 1998年サッカーW杯フランス大会も振り返る

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現役時代の井原氏もクレバーで読みが鋭く、戦術眼に長けていた。まさに日本人の長所を研ぎ澄ませたようなCBだったと言っていい。だからこそ、筑波大学2年だった1988年に初めて日本代表に招集され、同年1月のUAE戦(ドバイ)で国際Aマッチデビューを飾り、足掛け12年間も日の丸を背負うことができたのだ。

122試合というキャップ数は遠藤保仁(J1・ガンバ大阪)の152試合に次ぐ日本歴代2位だが、遠藤が数字を伸ばした2002~2015年とは違い、井原氏が戦っていた1988~1999年は国際試合が少なかった。1990年イタリア、1994年アメリカ、1998年フランスと彼は3度のワールドカップ予選に挑んでいるが、世界への扉をこじ開けられたのはフランスだけ。過酷な環境下の122試合には大きな価値があると言っていいだろう。

ドーハの悲劇があったからこそ今がある

「僕の代表人生の最初のターニングポイントはやっぱり『ドーハの悲劇(1993年10月のアメリカワールドカップアジア最終予選)』ですね。あの時はベテランのラモス(瑠偉=ビーチサッカー日本代表監督)さんやテツ(柱谷哲二=J3・ギラヴァンツ北九州の前監督)さんといった方々に引っ張ってもらって、アメリカまでホントにあと一歩まで迫ったけれど、行けなかった。

ドーハの悲劇からジョホールバルの歓喜までの4年間を振り返る井原正巳氏(東洋経済オンライン編集部撮影)

でもあの経験があったからこそ、Jリーグの成長や(サッカー人口の)底辺拡大などいろんな相乗効果がもたらされ、日本のレベルが上がり、最終的にフランスに行けたと思っています。

フランスの予選のときは、アトランタ五輪世代の城(彰二=解説者)やヒデ(中田英寿)、能活(川口=JFA9地域統括ユースGKサブコーチ)たちが28年ぶりにアジア予選を突破して五輪本大会に行き、ブラジルを下すという大きな自信をもたらしてくれたことがいい刺激になりましたね。

『自分たちはアジアくらいじゃ負けないんだよ。絶対に勝ち上がれる』というふてぶてしさが彼らにはありました。加茂(周=現解説者)監督が更迭されて、岡田(武史=JFL・FC今治代表)さんが後を引き継いだときも動じない雰囲気を作ってくれた。正直、ジェネレーションギャップみたいなものは感じつつ、逞しいなと思いながらやっていたのを懐かしく思い出しますね」と井原氏は苦しみ抜いたドーハの悲劇からジョホールバルの歓喜までの4年間を神妙な面持ちで振り返った。

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