記憶を抹殺したい日韓W杯、元日本代表の述懐 森岡隆三が語る逃げ出したかった世紀の祭典
「2002年日韓ワールドカップ? 僕にとってはサッカー人生最高の時でもあり抹殺したい記憶でもあります」……。日本中を熱狂と興奮の渦に巻き込んだ16年前の祭典の最中に1人もがき苦しんでいた男がいた。
トルシエジャパンで大黒柱の1人として活躍した森岡隆三
2002年6月4日、埼玉スタジアム。青一面に染まったスタンドの異様な熱気をひしひしと感じながら、日本代表はベルギーと自国開催のワールドカップ初戦を戦っていた。序盤からベルギーに主導権を握られながらもしっかり耐えて、いい守りができていたのは、キャプテンマークを巻いた森岡隆三(現J3ガイナーレ鳥取監督)の傑出した統率力と的確なラインコントロールがあったからだ。
「監督が(フィリップ・)トルシエじゃなきゃ、俺は呼ばれてなかった」と本人も認めるように、180㎝と高さのないDFに「フラット3」の異名を取る3バックの中央を任せるのはリスクが高い。その小柄な体躯にもかかわらず、彼は相手との駆け引きに長け、臨機応変にカバーリングやサポートに入れる判断力と対応力を備えていた。
「自分で考えられる選手」を求めるフランス人指揮官にとって、クレバーさと読みの鋭さを誇る男の存在は非常に大きかった。当時所属していたJ1清水エスパルスのオズワルド・アルディレス監督がその力を磨いてくれたことも追い風になったと言える。2000年シドニー五輪8強、同年アジアカップ(レバノン開催)制覇、2001年コンフェデレーションズカップ(日本開催)準優勝とトルシエの下で成功を収めてきた森岡は、紛れもなく守備の大黒柱の1人だったのだ。
ベルギー戦前半を0−0で折り返した後半12分、日本はベルギー代表キャプテン、マルク・ヴィルモッツ(前ベルギー代表監督)のオーバーヘッドで先制点を許す。それでもひるむことなく打ち合いを演じ、2分後には鈴木隆行(現解説者)の歴史的ゴールで1−1に追いつく。後半24分には稲本潤一(現J1コンサドーレ札幌)の2点目が生まれ、逆転に成功。そのまま守り切れば、勝ち点3を手に入れられるところまで来た。
その矢先の後半27分、背番号4に異変が起きる。相手との接触から左足裏がズキズキと痛み出し、ひざ下の感覚がなくなったのだ。
「何だ、これは一体?」
パニック状態に陥った森岡のところにドクターが駆け寄ったが、プレーには支障がないはず。けれども、どうしても違和感は拭えず、自ら尻もちをついて交代をアピールする羽目になった。代役には直前の練習試合で鼻骨骨折を負い、フェイスガードをつけた宮本恒靖(現J3ガンバ大阪U−23監督)が入る。1つ年下の宮本とは親友でもあり、同じポジションを争ってきたライバルでもある。森岡の胸中は複雑だったに違いない。
「ツネの熱狂的ファンから『正義は勝つ』と書かれた分厚い手紙が届いたこともありましたね」と森岡は苦笑する。
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