日本の「セクハラ議論」になぜか欠けている視点 性的同意をもっときちんと教えるべきだ
筆者は男性がこうした態度を取り始めたころ、日本人の男性の多くはなぜ、何が女性を不快にさせるのかを女性たちに聞いてみないのか不思議に感じたが、それはおそらく、女性が発する言葉への根深い軽視が背景にあるのではないかと思うに至った。
例えば、日本のテレビでは「ノーはイエスという意味」「食事に行ったらOK」といった冗談が交わされ、ドラマやマンガでは弱々しく抵抗する女性をロマンチック、あるいはエロチックであるかのように描いているのをたびたび見かける。「可能性はない」という言葉には「もしかすると」という意味が織り込まれ、「今日はしたくない」は「10分たったらもう一度聞いてみて」と置き換えられたりしている。
男女間のコミュニケーションが寝室から重役の会議室までほとんどの環境でうまく行われていないのなら、セクハラや性的暴行について議論するのはとうてい無理な話だ。
アメリカでは性的同意の授業があった
ハラスメントや性的暴行を議論する際、それが「一線」を超えた行為だったか否かを分けるのは、2人の間に同意があったかどうかである。アメリカの医療NGO「プランド・ペアレントフッド(家族計画連盟)」によると、「(性的)同意とは、誰かと性的な関係を持つことに積極的な同意を示すこと」であり、「同意なしの性行為はレイプ、または性的暴行である」という。
筆者はアメリカの大学で性的同意について学ぶ機会に恵まれた。大学1年生のオリエンテーションでは、寮長たちから性的な合意とは何か、また合意の重要性を教えられた。学生がスタッフを務める「性的情報センター」もキャンパスにあり、どの学生でも受けられる性教育のレベルも2つあった。レベル1を受講したときには、避妊、性行為感染症、性暴力、合意、性と社会的な権力の関係などについて深く学んだ。合意についての授業では、コミュニケーションの重要性が語られていた。
しかし、日本の多くの若者には同様の機会がない。日本人の友人に聞いてみると、「学校の乏しい性教育で性暴力や合意の話は1回も出てこなかった」「大学には性教育に準ずる授業はまったくなかった」という。友人たちによると、友人同士でセックスの話はするが、合意の話などをすることはないという。
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