日本の「セクハラ議論」になぜか欠けている視点 性的同意をもっときちんと教えるべきだ
誰でも「セクシュアル・ハラスメント (性的嫌がらせ) 」という言葉は知っているだろう。日本でもセクハラや性的暴力に関する報道は増えているし、職場はより厳格になっている。ネット上でもこうした行為は非難されている。
しかし、メディアを通じて、あるいは、日常生活の中では、まだ多くの日本人はこの問題への深く繊細な理解に欠けているか、変化を起こす力がないと筆者は感じることが少なくない。
結果的にセクハラを「許してしまっている」
2015年の政府の調査によると、日本で強姦事件にあった被害者のわずか4%しか警察に通報していない。厚生労働省の別の調査では、女性の3人に1人が職場で嫌がらせを受けたことがあるとしており、そのうち告訴しているのはわずか37%だとしている。セクハラ加害者の大半は、被害者がほぼ毎日接触している誰かだということもわかっている。
こうした厳然とした統計は、おそらく知られているだろうが、だからといって、すぐに事態が改善するとは限らない。セクハラや性的暴行を根本的になくすには、まずそれを結果的に「許してしまっている」無関心や無知を克服しなければならない。
現在のところ、日本の社会では男性が権力のある地位の大半を占めている。例えば、日本の国会議員で女性が占める割合はわずか10%、中規模から大企業における意思決定者にいたってはたった5%である。つまり、こうした数字が改善されるまでは、男性の指導者たちが、法律や学校教育、職場での訓練、ビジネス上での慣行などを改める重責を担っているわけである。
ところが、セクハラや性的暴力に対する社会的意識が高まるにつれ、多くの男性たちは毎日のやりとりが突然に地雷になりうると気づき、常軌を逸脱したどんな言葉も、またはどんな体の接触でも非難を浴びる可能性があると心配するようになった。しかし、最も一般的な生き残りの方法――何も言わない、誰もが見えるところに両手を出しておく――には、セクハラや性的暴行抑止における重要な要素、すなわちコミュニケーションが欠けている。
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