40歳、歌舞伎町で俳句を生業にする男の稼ぎ方 子どもの頃から興味のあった道に落ち着いた

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給料はよかったのだが、そもそもお金に興味がないので、それはモチベーションにはならなかった。結局、半年で辞めてしまった。

「そこからはフリーターみたいな感じでした。塾の講師をしたり、漫画の脚本を書いたりしてました。俳句の先生の先生が脚本家で、その影響で『脚本を書いて』って頼まれて」

2~3年間はフリーター生活を続けた。25歳になった頃、俳句を通じて出会った知人が俳句の出版社を立ち上げた。大企業の元会長がオーナーで、文化事業をやるという名目だった。

「出版社の立ち上げから参加して、編集作業はもちろん、取次(出版社と書店をつなぐ業者)まわりの仕事もさせてもらったので、勉強になりました」

オーナーは最初こそ「儲けなど別に気にしない」という態度だったが、だんだん口を出すようになってきた。

怒鳴り散らすので、すぐに社員は辞めてしまう。5年間で100人ほどの社員が辞めた。続いているのは3~4人しかいなかった。

「僕も5年目で結局ケンカして辞めました。ロッカーとか全部、ぶったおして飛び出しました。辞めた後は、収入は社会保険だけでした。あとは、一緒に住んでた女のヒモになって暮らしてました」

朝起きると、井の頭公園に歩いていって、ベンチで酒を飲んだ。何をするでもなく一日中ボーッとしていた。

「ちゃんと花は咲く」

それを毎日毎日繰り返した。公園にいるホームレスたちと仲良くなった。

「桜の季節に井の頭公園に行き始めたんですけど、毎日毎日酒飲んでボーッとして暮らしてちょうど1年経ったとき、また桜が咲いたんですよね。誰に言われるわけでもないのに、ちゃんと花は咲くんだって。ものすごい感動しましたね。ジーンとしました。あの1年は、いい体験だったと思います」

「砂の城」のオーナーに至るまでの道のりを北大路さんは語ってくれた(筆者撮影)

そんな生活を続けた2011年に、ある俳句のパーティーに参加すると、とある出版社の編集者がいた。話をすると

「1日中ぼーっとしてるなんてもったいないから、うちで働きなよ」

と誘われた。そこから現在にいたるまで、北大路さんは短歌の本を作る編集部に在籍している。

2011年、芸術家の会田誠さんが歌舞伎町に「芸術公民館」というお店を作った。会田さんは常々、

「海外にはアーティスト同士が議論する場所があるが、日本はそういう場所がなさすぎる」

と感じていたため、自分で“議論できる場所”を作った。

飲み物は1杯200円で、お店が100円、店員として入った人が100円の取り分という、ほとんど儲けを考えていない店だった。

それ以前から、会田さんと知り合いだった北大路さんは、毎日のように飲みに行っていた。会田さんも忙しくなり、いつの間にかお店は北大路さんが仕切るようになっていた。

「ずっといるなら、北大路くんが店をやりなよ」

という話になり、3~4年前に名前を変えて北大路さんのお店として営業がはじまった。

現在の「砂の城」である。

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