蒲田の小さな鮨屋が世界的名店になったワケ

世界的企業にも通じる「顧客価値」の再発見

がんという病気には“完治”という表現がない。あるのは“寛解”という言葉のみ。10年再発しなければ、再び生命保険に入れる寛解となるが、だからといって再発のおそれはつねにある。すなわち、明日は病院のベッドへと戻り、二度と店を開くことはないかもしれない。

いや、それは中治も同じだ。交通事故である日突然、あの世に行くかもしれない。

価値観を大きく変えた中治は、その日、その夜を最高の舞台とすること。明日はないとの覚悟を決めた。

そう覚悟を決めたならば、細かく素材の仕入れ価格を抑え、安全装置とも言える料理人の“コスト感覚”をいっさい無視したすしを握ることができる。予約はスカスカ。希少な高級素材を仕入れたからといって、利益を上げていけるのか、リスクは極めて高い。

「今日が最後なら、鮪の値段がいくらなのか、尋ねる奴がいるのか?」

安全装置を外した中治は、ひたすらに“最高のすしとは何か”を求め始めた。

2008年に『ミシュランガイド東京』が、大田区にあるレストランも評価対象に加えると、その後、たった2人だけで営業するこの店は、毎回、二つ星で掲載され続けるが、利益はほとんど出なかった。

そんな初音鮨が予約困難店となったのは「食べログ」を通じて評判が広がり、驚きと称賛がネットを通じて知られるようになった2015年からのことだ。“今日が最後”と覚悟しての営業を10年近く続けたあるとき、SNSを通じて爆発的に知名度が上がり、ほかでは見られない中治の独創的なすしを食べたいお客たちが予約をこぞって入れ始めたのだ。

利益を捨てた非常識経営の行き着いた先

それが工業製品であれ、料理であれ、あるいはサービスであれ、商品を販売する事業において大切なことは、“顧客を信じ、顧客価値を高めることに専念する”ことだろう。中治のすしが変わったきっかけは、女将であるみえ子の病気だった。

しかし、みえ子の乳がんをきっかけに利益を捨てた非常識経営に向かい始めると、お客たちはその素材の見立て、綿密に計算しながら組み立てられたすしの1貫、1貫を、しっかりと評価してくれた。

お客の感覚を徹底して信じ、最高の1貫を生み出せば評価される――。

中治がすし職人としてのステージを登ることができたのは、顧客の感覚を信じて、ただただ自分は最高のすしを求めたからだ。

商品に対価を支払う顧客満足を高めることこそが、事業価値を高める。言葉で書くのは簡単だ。

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