性的虐待を人格交代で凌いだ女性の壮絶半生 トラウマ治療で乗り越えた48歳女性の軌跡

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11歳の時、母親が養父と離婚します。それまでなつきさんは兄からも暴力を振るわれていましたが、当時中学生だったその兄は離婚後も転校しないことを望み、しばらくの間、祖母や叔父の家に身を寄せることに。妹は父親(なつきさんの養父)に引き取られたため、なつきさんは母親と2人で暮らすことになりました。

これでようやく穏やかに暮らせるはず――そう思いましたが、望みはすぐに断たれます。母親は昼も夜も働きに出て、なつきさんは1人孤独な生活に取り残されたのです。学校に通いながらすべての家事を引き受けたのは、母親に「いい子だね」「ありがとう」と言ってもらいたい、その一心でした。しかし母親の口から出るのは相変わらず、否定的な言葉ばかり。しだいになつきさんは、精神を病んでいきます。

母親に褒められたい一心で

精神科にかかるようになったのは中1の時、胃潰瘍になったのがきっかけでした。中3の頃には精神安定剤や睡眠薬を服用しており、学校へは行ったり行かなかったり。そんな状況でも「受験勉強を頑張ろう」と思ったのは、「地域でいちばん上位の高校に進んで、母親に褒められたい」と思ったから。

しかしというべきか、案の定というべきか、志望校に合格したなつきさんへの母親の言葉は残酷でした。「これでまた3年タダ飯食わさなあかんねんな」。なつきさんはこれ以降、乖離の症状を悪化させていきます。初めてリストカットをしたのも、初めてOD(オーバードーズ=薬の過剰摂取)をしたのも、この頃でした。

中学の先生に助けられたこともあります。受験の1カ月前に母親が自殺をほのめかして家出をした時も、なつきさんが初めて腕を切った時も、担任や数学の先生が駆け付けて、面倒をみてくれました。

母親は来なかったため、なつきさんは1人で高校の入学式に出席しました。しかし、この日を最後に高校は休学し、精神科の病院に入院することに。初めは統合失調症と診断されましたが、医師が変わるごとに診断名も変わり、薬だけが増え続けていきます。当時、なつきさんにとって薬は「唯一、私の期待を裏切らない支え」だったそう。

なんとか4年で卒業できたのは、なつきさんの努力はもちろんのこと、高校の先生たちのおかげもありました。入院していた病院から学校までは距離が遠く、何度も電車の乗り換えが必要だったのですが、たまたま病院の近くに住む数学の先生が、毎朝なつきさんを車で拾って学校へ連れて行ってくれたのです。

成績も出席日数もぎりぎりでしたが、「足りないとなると、私1人のために補講をやって単位をくれたりして、なんとか救済してくれた」そう。昨今は先生たちも忙しく、こんな親身にはなれないかもしれませんが、当時なつきさんが周囲のサポートを得て高校を卒業できたのは、何よりのことでした。

高校時代の記憶も、途切れ途切れです。登校したはずなのに、「気づくと名古屋にいた」といったことも、時々あったそう。なつきさん本人が知らない間に、別人格はいったい何をしていたのか? 今でも、まったくわからないのだと言います。

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