「介護保険を作った男」が語る舞台裏のドラマ 壁に当たるたびに、「新しい主役」が現われた

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社会保障制度は、よくも悪くも国民一人ひとりの生活、人生そのものを大きく変えていくだけの力を持っています。それだけに、省内での議論も真剣になるのですが、そうした議論が延々続き、果てに漂流していきました。さらに、厚生省内のほかに、当時の大蔵省や自治省との議論や調整も大きな課題でした。当時の両省の担当官は優れた人たちで大変助かりましたが、それでも調整には長い時間を要しました。こうしたことが、法案提出が遅れた原因となりました。

法案をまとめた力とは?

――そんな混沌とした情勢が法案提出に向けてまとまったのは、なぜですか。

山崎:私は、最も大きかったのは、「政治の力」だと思います。当時は、自社さ政権でしたが、3党の政策立案を担当していた政治家のリーダーシップが大きかったと思います。政策の立案決定では、行政内での検討や関係業界との意見調整は欠かせませんが、大きな制度がテーマになると、それだけでは意見集約できないことが往々にしてあります。特に、国民各層に大きな負担を課すような仕組みはそうです。介護保険制度はその典型でした。

いくら各論レベルで議論を積み重ねても、最終決断はやはり政治の力が必要となります。先ほど申し上げたように、1996年4月に老健審が意見集約に失敗した後に、表舞台に出たのが、「与党福祉プロジェクト」です。ここを舞台に、行政内部や審議会で暗礁に乗り上げていた論点が再度取り上げられ、政治の場で一定の結論が出され、法案の骨子が決定されていきました。政治が果たした役割は大きかったと思います。

ただ、誤解してはならないのは、こうした政治決断も政治の独断ではなく、それまで行政や関係団体の間で、長い時間をかけて制度をめぐる議論が重ねられたうえで行われたということです。論議の末、論点も煮詰まったうえでの最終決断だったからこそ、最終的には関係者も納得したと言えます。法案は一旦提出が見送られたのですが、その後も、当時の与党の政調会長のリーダーシップにより、法案の国会提出までこぎ着けることができました。

――ところが、その難産の法案が可決した後も、すんなりと実施とはいかなかった。

山崎:先ほど、政治の力が大きかったと言いましたが、その政治の力が逆に作用してしまった。やっとの思いで法案が可決し、全国の市町村やサービス事業者が制度施行に向けて懸命に取り組んでいる準備作業が大詰めを迎えた1999年に、突然、制度の見直し凍結が、政権交代後の与党から提起されます。当時は、介護保険は国民負担増の制度なので、翌年に見込まれていた選挙への悪影響を懸念したのではないかと言われましたが、いずれにせよ、担当部局のみならず全国の現場が大混乱に陥りました。

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