「介護保険を作った男」が語る舞台裏のドラマ 壁に当たるたびに、「新しい主役」が現われた

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――制度の創設に長い年月がかかっていますね。本ではその間の紆余曲折が書かれていますが、実際に創設作業に携われて、どう感じられていましたか。

山崎:1994年に高齢者介護対策本部が設置されましたが、介護保険制度の実施まで約6年かかりました。しかも、その間、制度の企画立案から始まり、関係者間の議論、制度案の修正、国会審議、さらに施行直前の見直しなど、今思い出しても息苦しくなるほど、困難な作業が続きました。制度を立案、実施する立場にあった者として、「うまくいっている」と感じる状況も翌日にはすぐに暗転する、といった感じで、正直言って安心できるような時期はほとんどありませんでしたね。

制度の大枠を議論する最初の段階――これは1994年の大森研(高齢者介護・自立支援システム研究会)のころですが――は、大変楽しい時期でした。介護保険制度に大きな社会的な期待が寄せられていることを実感できました。知り合いのマスコミの方から「介護保険制度は大丈夫だよ」と言われ、自分自身も、このまま案外スーッと実現するのではないか、という楽観的な気持ちも持ちました。

「むき出しの利権争い」

――ところが、その後、大変だったようですね。

山崎:まったくその通りです。1995年以降、制度の具体的検討に入ると、情勢は格段に難しくなりました。

第1点が、介護保険制度は関係する業界や団体が極めて広く、しかも論点が多岐にわたっていたため、意見の調整が極めて難航したことです。最もつらいころの思い出の1つは、1996年4月の老人保健福祉審議会の最終報告です。何せ、前年に第1回会合が開催されて以来、1年で42回もの会合を重ねたにもかかわらず、最終的にまとまった報告は、各団体の意見が並行的に書かれている「両論併記」「多論羅列」と批判された内容で、暗澹(あんたん)たる気持ちになりました。当時、この審議をつぶさに見ていた故・池田省三氏は、老健審の審議は「むき出しの利権争いだ」と嘆いていました。

第2点は、制度作りが、厚生省(当時)内部でも難航したことです。省内では、介護保険制度が重要だというのはおおむねのコンセンサスだったのですが、社会保険制度としての具体的な仕組みについては、議論が沸騰していたのです。

こうした状況は、当時は外部の人はあまりご存じなかったのではないかと思います。今回の本で初めて詳しく紹介されており、かなりのページが割かれています。当初、5つの制度案が検討されていましたが、省内議論が進むにつれて、1つの案に収束するどころか、新たな制度案が追加され、論議は拡散する一方でした。

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