「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然 なぜ、日本人は論理的な文章を書けないのか
よく、日本人は論理的に思考したり表現したりするのが苦手だと言われる。
実際、大学で教鞭をとる筆者がアメリカに送り出した留学生の中にも、最初に提出したエッセーに対して「論理性が欠如している」と評され、他の国や地域から来た学生たちと同じスタートラインにつくのに随分と苦労したと訴えた学生がいた。
その原因については、長年にわたり日本が多文化性の比較的低い国であったこと、以心伝心や「空気を読む」ことをよいこと、または当然のことと考え、期待する文化的風土などから、論理明快に自分の意見を述べる必要が少なかったからではないかとも言われる。
思考は言語に依存するという考えから、日本語の特質に由来するとの見方も少なくない。
たとえば、語順によって意味が決まる英語のような「孤立語」と違い、日本語は「膠着語」であり、助詞によって意味が決定されるため、語順の自由度が高く、それが曖昧性を生み出しているのではないか。あるいは、日本語は述語が最後に来る「文末決定性」という特質を持つので、肯定か否定か疑問なのかが最後までわからない。
このことが、明確な主張を持たずとも、とりあえず語り出すことを可能にし、それが論理の明晰さや一貫性を欠くことの遠因ではないか、というのである。
なるほどと思うし、ほかにも考えられる要因はあるだろう。しかし、筆者が専門とする教育学の見地からすれば、およそ最大の原因は国語教育における作文指導の偏りにあると考える。
読書感想文と学校行事の作文は「教育のガラパゴス」
「作文」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、読書感想文と学校行事の作文だろう。しかし、大人になってこれらを何回書いただろうか。いや、そんな機会、経験は皆無に違いない。ではなぜ、先々書く機会のない文章を、しかもあんなに頻繁に、大量に書いてきたのか。
その一方で、多くの人が仕事上の必要などから、一定の事実や証拠に基づき、そこから論理を積み上げ、明快な主張を展開する文章を毎日のように書いている。これは学校教育的には説明文ということになるが、それを書く訓練を学校でしっかり受けたという人は、驚くほど少ない。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら