「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然 なぜ、日本人は論理的な文章を書けないのか

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そんな中、在野の文学者であった鈴木三重吉が、子どもの感性や美意識を涵養するには第一級の文学者や音楽家の手による質の高い童話・童謡に触れる必要があるとして、『赤い鳥』(1918~1936年)を創刊する。『赤い鳥』には、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、有島武郎の「一房の葡萄」、新美南吉の「ごん狐」などの名作が次々と掲載され、童謡では北原白秋の「からたちの花」、西條八十の「かなりや」などが誌面を飾った。

鈴木は、作文教育についても積極的に発言し、お手本の模倣や空想による練習ではなく、子どもが「ただ見たまま、聞いたまま、考えたまま」を、型にとらわれず自由にのびのびと書く「子どもらしい」「ありのままの真実を綴る」作品を推奨した。

『赤い鳥』が特徴的だったのは、子どもが投稿した作文や詩が掲載され、鈴木や北原による寸評が添えられたことである。これにより、鈴木の理念は作文教育の世界に大きな影響を与えることになる。

興味深いのは、鈴木は型にとらわれず自由にと言いながら、子どもにはフィクションや思想について書かせるべきではないとした点であろう。『赤い鳥』の作文募集要項に「空想で作ったものではなく」とわざわざ断っているほどである。

鈴木は「事実はかける。概念、観念はかけない」と述べているが、その背後には、経験的事実の正確な叙述を重んじる大正期ならではのリアリズム重視の考え方が見え隠れしている。

作文指導をめぐり、激しい論争

かくして、模倣や型の強制に明け暮れた明治期の作文教育への反省と改革の中から、今日にまで続く2つの伝統が生まれ、学校現場に広く根を下ろした。

その第1は、形式や技術よりも子どもの心情や態度を重視する指導理念である。そして第2は、リアリズムを重んじ、フィクションや思想を作文の課題・対象から排除する傾向であった。

昭和に入ると、文学が大正期のロマン主義からプロレタリア文学へと移行したように、『赤い鳥』的な「見たまま、聞いたまま」の原則は維持しつつ、子どもに貧困や格差などの生活現実を赤裸々に書かせることで、自分たちの置かれた階級的状況やその背後にある矛盾や問題に気づかせようとする「生活綴り方」が、左翼的な運動とも相まって盛んになる。当然、戦時体制が強まる中で「生活綴り方」は弾圧を受け、1940年の教師の一斉検挙を機に衰退していく。

戦後を迎えると、アメリカの指導により、書く技術の向上を目指し、しっかりと形式を教える作文教育が導入されるが、学校現場では「生活綴り方」的伝統への執着に根強いものがあり、激しい論争が展開される。

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