岩政大樹の死闘の記憶、2011年アジアカップ 日本代表を変えたのは「本田世代」だった
1月9日の初戦・トルクメニスタン戦(アブダビ)からスタートする2019年のアジアカップ(UAE)。森保一監督率いるサッカー日本代表には8年ぶり5度目のタイトル獲得に向け大きな期待が寄せられる。
しかし「楽な試合は1つもない」と2011年カタール、2015年オーストラリアの2大会で背番号10をつけた香川真司(現ドイツ・ドルトムント)が語気を強めていたように、この大会は死闘の連続となるのが常だ。
4度目のアジア王者に輝いた8年前を思い返しても、初戦・ヨルダン戦を吉田麻也(イングランド・サウサンプトン)の後半ロスタイム劇的弾で1-1のドローに持ち込んだところから、早くも苦戦を強いられた。
続く第2戦・シリア戦では守護神・川島永嗣(フランス=ストラスブール)が退場し、松井大輔(J2・横浜FC)も負傷離脱。準々決勝・カタール戦でも吉田がレッドカードを食らうなど、予期せぬアクシデントが続いた。
そんな中、重要な働きを見せたのが、バックアップのDF岩政大樹(解説者)だった。第3戦・サウジアラビア戦の後半18分から大会初出場を飾った彼は、大会の成否を分けたカタール戦で吉田退場後の最終ラインに入り、確実に守備を固めた。
2011年のアジアカップに強いこだわりがあった岩政
「あの大会の僕は足裏の肉離れをしていたんです。代表メンバー発表2日後の天皇杯準決勝でケガをして全治3~4週間と診断されました。アジアカップ開幕までは2週間しかない。普通に考えたらムリだったけれど、僕はどうしても行きたかった。当時29歳で、2014年ブラジルワールドカップの時は32歳。それは厳しいと感じたし、あのアジアカップが最後の大舞台になる可能性があったんで、強いこだわりがありました。
ザックさん(アルベルト・ザッケローニ監督=現UAE代表監督)も『開幕前日までに練習に復帰できれば最終メンバーに入れてやる』ということだったんで、必死に直そうとした。実際、開幕時は激痛でしたよ(苦笑)。
それでもザックさんは少しずつ使ってくれるようになった。特に大きかったのはカタール戦。麻也が退場して突然起用されたけど、何とか自分が守備陣を安定させることができましたね」
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