サッカー日本代表、森保監督に問われる手腕 五輪とA代表は基本的にリンクさせる方針
――2019年4月で平成も終わりますが、日本代表入りとJリーグ開幕、サンフレッチェ広島での優勝、指導者としての成長、代表監督就任と森保さんは「平成を駆け抜けた人物」だと思います。そこでドーハの悲劇のことから伺います。1994年アメリカワールドカップを逃した瞬間のことを覚えていますか?
「あまり記憶がないですね。試合が終わって何をやっていたのか、どうホテルに帰ってきたのか……。もう時間が経っているので、その記憶自体も薄れてますけど、『頭が真っ白になる』という状態。僕らはアメリカワールドカップの予選には夢を懸けて戦ってましたし、夢がつかみ取れるところまで来てて、つかみ取れなかった。やはりショックだったと思います」
代表は自分にとって特別な舞台だった
――森保さんにとっての日本代表はそれほど重みのある場所だったんですね。
「そうですね。特別な舞台でした。もちろんクラブでの活動も特別で充実したものでしたけど、1人ひとりが向上心の塊の中で切磋琢磨し、お互いを支え合い、結び付き合うということをやれる場所でした。
当時は合宿の期間も長かったので、サッカーだけじゃなくて、同じ屋根の下で同じ釜の飯を食うことが多かった。そういう時間の中ですごくいい関係を築くことができたと思っています。
今は指導者として代表という特別な舞台で仕事をさせていただいてますけど、『どんな役割でもいいから代表チームにいたい』という思いは当時からありました。日本を代表し、日本人の誇りを持って戦うことはすばらしいことだと感じていたので、つねに携わっていたいと思っていました」
――ハンス・オフト監督が率いた日本代表はラモス瑠偉(現・ビーチサッカー日本代表監督)さんやカズ(三浦知良=J2・横浜FC)さんなど非常に個性的な選手が多かったですよね。森保さんはあの環境でバランス感覚を養ったんですか?
「強烈な個性を持つ方は多かったですね。私はラモスさんやカズさんとは特長が違いますし、人それぞれの個性や特長があっていい。自然体でいいと思っていました。周りもそんな自分を受け入れてくれていました」
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