回鍋肉とロマンスグレー
「そういえば、回鍋肉をおいしく作るコツ知ってる? 」
「どうするんですか?」
「炒める前のちぎったキャベツを、よく揉むといいんだよ」
「揉むって、塩で揉むんですか?」
「いやいや。そのままでぎゅっと。そうするとこんなふうに、タレがよくからむんだよ」
ある日の夜、2時間にわたる長いインタビュー取材を終えた私は、依頼主のSとともに、閉店間際の中華料理屋で遅い夕飯をとっていた。眼の前の皿に盛られた回鍋肉。自身のこだわりの作り方を語るSは57歳の、お洒落でジェントルな男性だ。すらりとした長身にロマンスグレーのロングヘアをひとつにたばね、トレードマークの黒のハットを被っている。
名だたる企業の広告戦略の立案を生業とするS。都内にある彼の仕事場には、一般的な事務所とは少しだけ違うところがある。業務用の重厚な調理設備が一通り揃った、それはもう立派なキッチンが備えられているのだ。
打ち合わせではじめてSの事務所を訪れたとき、驚く私にSは言った。
「僕もうちの奥さんも、とにかく料理と酒が好きでね。家では交代でつまみを作りながら、翌日二日酔いになるまで飲んじゃうの。だから事務所にも友だちを呼んで、大勢で食べたり飲んだりできるように、キッチン付きの事務所を探したの」
隙あらば夫や子どもの話をするという女性は少なくないが、隙あらば妻や子どもの話をする男性というのはけっこう珍しい。Sはその珍しい中の一人だった。
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