玉田圭司が回顧する選手の一体感と世代融合 2004年のアジアカップで自分を甦らせた言葉
「ロナウジーニョなんか手を抜いてやってたと思う。そういう中で自分も楽しむし、味方も楽しませるみたいな余裕があった。僕も楽しんでいたけど、ブラジルの選手たちはそれ以上に楽しんでいましたよね。サッカーの奥深さを再認識させられたのはあの時。世界に出ていきたいという気持ちも湧きました」
だが、当時の彼は26歳。海外移籍を本気で考えるには少し年齢的に遅かった。J2降格した柏レイソルから名古屋グランパスへ移籍してまだ1年目というのも大きかっただろう。
2006~2007年にかけてはケガも続き、代表からも外れ、本人も現状を打破するだけで精いっぱいだったのは確かだ。
本田圭佑に気づかされたメンタルの重要性
ちょうど同じ頃、名古屋にいた若手の本田圭佑(メルボルン・ビクトリー)がオランダ1部のVVVフェンロへ赴いた。彼は入団前から海外移籍の具体的ビジョンを描き、そのとおりに遂行していった。玉田らの世代とは取り巻く環境も考え方にも大きな差があった。
「本田は若い時から『主張する時は主張する』ってスタンスだったから、海外向きだったよね。彼のいちばんすごいところはメンタル。自分はそれがいちばんの問題だったし、特に若い頃は『ミスしたらどうしよう』とつねにオドオドしながらやっていたから」
そう語る玉田は2010年南アフリカワールドカップに近づくにつれて、本田らの世代に追走されることになる。岡田武史監督が再び指揮を執り始めた2008年から代表に本格復帰した玉田は最終予選途中までエースと位置づけられ、指揮官からも「FW陣を引っ張っていってくれ」と注文を受けていた。
が、2009年に入ってから肋骨骨折やグロインペイン症候群など予期せぬ負傷が続く。日本が南ア切符を獲得した2009年6月のウズベキスタン戦(タシケント)も欠場し、岡崎慎司(レスター)に主役の座を譲った。
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