42歳、元日本代表DF森岡がJ3監督で描く大志 今季の目標J2昇格、鳥取で愛されるクラブに

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サッカー元日本代表の森岡隆三はJ3で監督として2シーズン目を迎えようとしている(撮影:今井康一)
2002年、日本中が熱狂に包まれた自国開催の日韓W杯(ワールドカップ)。当時、トルシエジャパンの大黒柱の1人だったのが森岡隆三だ。だが、グループリーグ1戦目のベルギー戦で負傷交代、キャプテンとしても活躍していた森岡にとってはあっけない幕切れとなった。
2003年以降は代表からも遠ざかり、2006年オフには清水エスパルスから京都サンガに移籍し2008年に現役引退。あの熱狂から16年、40歳を過ぎた森岡はJ3ガイナーレ鳥取で監督就任2年目のシーズンを迎えようとしている。 

前編:『記憶を抹殺したい日韓W杯、元日本代表の述懐』

「1月17日から始動したけど、少し雪かきしたらまた雪が降ってグラウンドが使えなくなる。移動を含めて困難は多い。それを乗り越えないとJ2昇格はない。今年が勝負です」

元日本代表キャプテン・森岡隆三監督は鳥取で新たな苦難の道を歩んでいた。

僕はサッカーに携わらないと生きていけない

2008年末で現役生活にピリオドを打った元日本代表DFがセカンドキャリアとして選んだのが、指導者の道だった。

「2002年日韓ワールドカップでの天国と地獄を含めていろいろあったけど、やっぱり僕は何でもいいからサッカーに携わらないと生きていけない」と悟った末の選択であった。

2009年の京都トップチームコーチ就任から始まり、加藤久(前J1ジュビロ磐田GM:ゼネラルマネージャー)、秋田豊(現解説者)、大木武(現J2FC岐阜監督)という3人の指揮官の下、コーチとしてあるべき姿やノウハウを学びながら、Jリーグの監督になるために必要なJFA公認S級ライセンスを取得する。当時の教え子には日本代表の久保裕也(ベルギー=ヘント)やリオデジャネイロ五輪代表の原川力(J1サガン鳥栖)ら若手もいて、彼にとっては新たな発見の連続だった。

2014年は業務提携していたJFL(4部に相当)の佐川印刷京都のヘッドコーチを務め、京都に復帰した2015年、森岡監督はU−18(ユース)監督に就任。ついに監督業の一歩を踏み出す。2年目の2016年にはユース年代最高峰の大会である「高円宮杯プレミアリーグウエスト」でガンバ大阪ユースを率いていた宮本恒靖監督(現U−23監督)と対戦。

「フラット3対決」として注目を集めたが、惜しくも2戦2敗。本人も悔しさを味わったようだ。それでもJクラブのアカデミーが参加する「Jユースカップ」では3位に入り、大きな手ごたえをつかんだという。

京都の体制が急に変わり、契約満了となったのは、まさにそんな頃。指揮官としての仕事にやりがいを感じ始めていた矢先の出来事で、森岡監督も自らの身の振り方に悩んだ。

「他のJクラブからも、いろんなお話を頂きましたが、ガイナーレで強化部長を務めているトモ(吉野智行=元J1浦和レッズ)から『ウチで監督をやらないか』という誘いを受け、心が動きました。トモとは前々から面識があり、サッカー観も合う。ガイナーレは2011年から2013年までJ2にいたけど、その後はずっとJ3にいて、一からチームを作り上げていかないといけない。トモの熱意とクラブの掲げる『強小』という言葉にも惹かれました。小さくても強い、ジャイアントキリング! それはまさにサッカーの醍醐味の一つですから」と彼は言う。

とはいえ、2014年が4位、2015年が6位、2016年が15位とJ2昇格圏内の2位以内から年々遠のいているチームを立て直すのは容易ではなかった。最大のハードルが、地理的条件の難しさだった。

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