最後に、恒例となりました私の半生の振り返りを。
前回は「12球団の存続と合併反対を打ち立て、ファンを含めたプロ野球選手会が立ち上がった」というところまででした。
合併問題が表面化してからは、選手会事務局の方や当時プロ野球選手会会長であった古田敦也氏と、今後の方向性について密に連絡を取り合い、良い方法を模索する日々が始まりました。
シーズン中なので毎日試合はあったのですが、頭の中は野球の結果よりもこの問題のほうが、正直、大きな比重を占めていたことは否めません。
近鉄のホームであった大阪ドームでの試合前には、選手全員で合併反対の署名運動を行ったり、休日には選手会でのミーティングや、会社のオーナーなど重役と話し合う労使交渉等に出席しました。これらはプロ野球選手として通常ならしなくてもいいような活動でした。
今考えると当時はそれどころではなかったためか、そう思ってはいませんでしたが非常に多忙だったなと思います。
このように、プロ野球選手会とファンで力を合わせ、当初のわれわれ側の目標通り「合併の1年間の凍結と12球団の存続」を願い、さまざまな行動を起こしましたが、経営者側の回答は「NO」の一点張りのまま変わらず、状況の好転への期待は絶望的に思えました。
近鉄とオリックスの合併問題が表面化していましたが、その影では一部球団オーナーによる1リーグ制(8〜10球団)への流れも進んでいました。
選手・ファンと決定的な亀裂を生んだオーナーの言葉
7月の上旬、当時選手会会長の古田氏がオーナー陣との直接の交渉に臨もうとしましたが、某オーナーが「無礼なことを言うな! たかが選手が!」と発言され、交渉自体を真っ向拒否されてしまいました。
それにしても、こんな恐ろしい場にたった1人、挑もうとしてくださった古田氏と、そして活動を支え続けてくださった選手会事務局の気持ちを思うと、今でも胸が熱くなり、感謝してもしきれない思いでいっぱいになります。
しかしこのオーナー陣からの拒否により、皮肉にも選手会とプロ野球ファンはますます合併問題への反発を強めることになったのも事実です。
これを受けさらに選手会が2リーグ12球団維持と、翌2005年からの新規球団参入を求めて、社会をも巻き込んだ行動をいろいろと起こしました。しかし、事態は変わらず平行線のまま、時間だけが経過していきました。
そしてとうとう9月中旬。選手会として、日本プロ野球史上初の行動を起こすことを決めるのです。
続きはまた、次回にしましょう。
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