教科書を使うと座学になりがち
──安倍政権下で道徳が国語、算数などと同じく教科になりました。
道徳の目的は子どもたちに公共のことを考える心を持ってもらうこと。公共も時代とともに変わる。
日本は人口減少により、今の子どもたちは社会に出ると高齢者、障害者、外国人と働くことが当たり前で、さらにAI(人工知能)も加わる。新しい社会の規範を考えるうえで、道徳教育は重要だ。運動会など行事の準備に充てられ、従来の「道徳の時間」はコマ数を確保できなかった。教科化で年35時間が必須となったことは評価できる。
──ただ、裏腹な問題があります。
教科になると、学習指導要領に書いてあることを網羅した教科書を授業で使う義務が生じる。ところが、道徳教育が目指すものは教科書を読むより、体験によって身に付くことが多い。4年生の教科書の「しょうぼうだんのおじいさん」は、消防訓練に励むパン屋のおじいさんを見て感謝の気持ちを抱くという話。これなら、実際に地域の消防団に話を聞きに行ったほうが効果は大きい。子どもたちに実物を見せ、自分の頭で考え、自分の言葉で語れるようにするのが大事なのに、教科書を使うと教室での座学が主体になりがちだ。押し付けられたことはすぐに忘れる。
──しかも、その教科書の中身が練られていません。
「星野君の二塁打」は2社の教科書に掲載され、うち1社はタイトルのそばに「よりよい学校生活、集団生活の充実」と表記されている。これを前提に子どもたちに議論させれば「監督の指示は絶対。それを守らなかった星野君が悪い」といった意見が大半になるだろう。
いかなるときも監督の指示は絶対なのか、という疑問は出にくい。道徳の教科化を打ち出した首相直属の教育再生実行会議ですら、押し付けではない、考え、議論する道徳と言っているのに、これではそうならない。むしろ、監督に不正行為を命じられた、日大アメフト部「宮川君のタックル」のほうが「集団の中での自分の役割」を考える教材に適している。
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