プライドが人一倍高い人のサバイバル術 「負けるのが嫌い」な人はどう生きていけばいいのか

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そこで、前々回と同じ結論を違った言葉で語るしかないのですが、私は世の中の「もののわかった」相談者とは違うので、まず、「プライド」は捨てられないという大前提で進んでいきます。こうした相談を向けられると、大方の相談者は「そんなプライド、捨てたらどう?」とか、「本当に自分のしたいことを見つけたら?」という方向に傾斜して回答するのですが、それは相談者の期待にまったく答えていない。相談者が相談したいのは、「そんなことはみんなわかっている、だが捨てられないのだ」という悩みなのですから。

「プライドを捨てろ」などとは軽く言えない

あるいは、なぜか「自分はあまりプライドもないし、あまり虚栄心もない」という「達観した」性格を装う回答者が少なくなく、すぐに「プライドなど、くだらないということがすぐわかるはずだ」と続きます。しかし、このほとんどはウソであり(ウソとわかって回答しているのであり)、したがって、相談者には通じません。「たとえくだらないとわかったとしても、やめられない」ことが悩みなのですから。

前置きが長くなりましたが、私はまさに「プライドが人一倍高く」「自分のプライドを維持させるために」生きてきたと言って過言ではありません。だから、相談者を鼻先でフンと笑う気が起こらないのです。特に、相談者が終わり近くで「こんな自分で両親に申し訳ないです」と、ちらりと吐露したことが気になります。

私はとにかく「優れていなければならない、他人に評価されねばならない」という強迫観念のようなものに駆り立てられて、少年時代、青年時代を過ごしてきました。親がそういうことを日々刻々、私に強要したからで、もし成績が悪かったら、東大に受からなかったら、弁護士とか大学教授という他人から評価される職業に就けなかったら、まず「親に」軽蔑されて生きていけないだろうと思っていました。

親があからさまに頭からそう私に要求したわけではありません。むしろ反対で、青い顔をして勉強している私に向かって、「どの大学でもいいじゃないか(の)」とか「大学教授にならなくたっていいじゃないか(の)」と語っても、その背後の「信号」を私はそう受信していましたし、親もとうの昔に死んだ今、振り返っても、このすべてはまんざら間違っていなかったと思っています。

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