「100回大会で100勝」目指す龍谷大平安の戦い 原田監督「平安の監督は仕事ではなく使命」
記念すべき、100回大会を迎えた全国高等学校野球選手権大会。第1回大会(1915年)は大阪・豊中グラウンドで行われ、第10回大会(1924年)から、現在の阪神甲子園球場に戦いの場が移った。
振り返ってみると、高校野球は大正、昭和、平成と、3つの元号とともに歴史を重ねてきた。そして、今夏の100回大会が「平成最後の夏」となる。時代が変われば、人の価値観も、社会が求める人間像も、高校生の気質も変わる。
それによって、監督の指導方法も変わっていくものだ。かつては、「トップダウン」「スパルタ」「理不尽」が当たり前の世界だったが、近年は「自立」「ボトムアップ」「主体性」「対話」という言葉がキーワードに挙がるようになった。
次の100年に向けて、高校野球はどのように変わっていくのか。あるいは、変わらずに大切にすべきことは何か。「不易流行」という考えもあれば、「温故知新」という考えもあるだろう。
現場に携わる指導者は、100回の節目に何を感じているのだろうか――。
過去と今を生きる伝統校・実力校の監督9人に、高校野球の未来をテーマに語ってもらった。
それが、拙著『名将たちが語る「これから」の高校野球 ~伝統の継承と革新~』である。
それぞれ、夏の大会前に取材をさせてもらったが、原田英彦監督(龍谷大平安・京都)、斎藤智也監督(聖光学院・福島)、中井哲之監督(広陵・広島)が甲子園出場を決めた。対談をお願いした森林貴彦監督(慶應義塾)と平田徹監督(横浜)が、北神奈川と南神奈川を制し、たまたまではあるが優勝監督対談となった。
平安の監督は仕事ではなく使命
「100回大会で甲子園100勝」
取材のときから熱く語っていたのが原田英彦監督である。この夏は、京都大会6試合で70得点3失点と圧倒的な強さを見せ、4年ぶり34度目の夏の甲子園出場を決めた。
子どもの頃からの平安ファンであり、自身も高校時代は平安でプレーした。ただ、甲子園には縁のない3年間だった。高校3年夏は優勝候補に挙げられながらも3回戦で清川栄治(元広島)のいた京都商に敗れた。高校時代は平安の低迷期と重なっていた。
敗戦後、バスに乗ろうとすると、多数の平安ファンが押し掛け、傘の先で「何しとんのや、お前ら!」とどつかれた。当時の監督はバスから引きずり降ろされ、「先に学校に戻って、ちょっと待っといてくれ」と選手に告げたまま、数時間戻ってこなかった。
「ショックだったですね。平安はそういう学校であることは感じてはいましたけど……」
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