39歳「工場夜景」に鉱脈を見た男の痛快な稼業 元保育士はこうしてプロカメラマンへ転じた

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小林哲朗さん(筆者撮影)

父親がいなくなっても、父親の母親(小林さんの祖母)とは一緒に暮らしていた。そしてその祖母が亡くなった時、父親は久しぶりにふらりと帰ってきた。

「でも帰ってきても葬式代1円も出さないんですよ。自分の母親の葬式ですよ? とても信じられませんでした」

結局、兄弟がバイト代を出し合い、なんとか葬式代を捻出した。

「それ以来父親とは会っていません。若い頃は楽しかったですけど、おカネの面では苦労しましたね」

高校を卒業する頃、急に保育士になろうと思い立った。理由は、スーツを着る仕事が嫌だと思ったからだ。ただ、思い立ったのが遅すぎて、受験できる学校がなかった。

1年間フリーターとして過ごした後、保育士の国家資格を取得するのに評判が良い専門学校に入った。卒業後、21歳で尼崎市内の保育園で働きはじめた。

その後はきちんと働き、25歳になった。

廃墟通いに夢中になった

2004年、世の中にはインターネットが出回ってきていた。何の気なしに、心霊スポットを検索していると、廃墟を専門に扱っているサイトにたどり着いた。

「『こんな異世界が日本にあるのか!!』と驚きました。そのころちょうどキヤノンのコンパクトデジタルカメラを買ったところだったので、興味半分でとある廃鉱山を見に行きました。まだ施設内には機械類は残されていて、めちゃくちゃかっこよかったんですよね。一気にハマってしまいました」

そこからは狂ったように廃墟に通った。

廃墟の写真(撮影:小林哲朗)

「もちろん日中は真面目に保育士として働いていました。土日や早上がりの日は寝る間も惜しんで廃墟に行きました」

コンパクトデジタルカメラでは画角が狭く廃墟の全体像が撮れない。一眼レフカメラと広角レンズを買った。

せっかく写真を撮ったのだから、ホームページでアップしたいなと思ったが、小林さんはホームページを作る能力を持っていなかった。すると友達に、

「最近はブログというのがあるよ」

と勧められた。

「ブログに写真をアップし始めると、いろいろな人たちから反応をもらえました。やっぱり喜んでもらえると嬉しいですから、ますます廃墟に通うようになりました。気づけば日本全国の廃墟を回っていました」

ブログの読者ともコミュニケーションをとるようになり、知り合いもできた。

その中の1人に、

「工場を望遠で撮ると面白いよ!!」

と勧められた。ためしに大阪府堺市の工場の夜景を撮ってみるととても面白い写真が撮れた。そしてそれ以降(2006年以降)、廃墟と並行して工場夜景も撮影するようになった。

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